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より 2004.03
3.18熊本地裁へ提訴しました!参照
準備をすすめてきました自衛隊派兵違憲訴訟がいよいよ提訴となりました。
法廷で争うだけでなく、広く市民に自衛隊派兵の問題点をお知らせして、自衛隊派兵中止の世論を作り上げていくことが大事だとあらためて感じています。
今秋には熊本の自衛隊の派兵が予定されており、これから市民の関心もつよまるのではないでしょうか。
弁護士さん方も多数献身的に協力していただき、感謝しています。
勝訴めざして、多くの市民に訴える運動を工夫していきましょう。
去る2月27日「自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会」が開かれ、3月18日熊本地裁に提訴することが決定されました。「9条の会」の運動と連携して、裁判闘争を通じて平和憲法を守る大衆運動を一層盛り上げようとするもので、共同代表の一人として是非成功させねばならない気持ちでいっぱいです。
先日NHKで、アーカイブス「東京大空襲」の記録映画が放映されました。60年前の3月10日、B−29爆撃機による絨毯爆撃で、死者10万8千人以上、すべての建物は焼き尽くされ、その惨劇は、戦争の残酷さを認識し、新たな怒りを感じました。熊本市も昭和20年7月1日の大空襲では罹災家屋1万1千戸以上、死者469名と多数の負傷者を出しています。この大空襲の慰霊碑が水道町の大甲橋際にあり、毎年7月1日、この碑を建立したライオンズ協会の人によって慰霊祭が挙行され、わたしも参列しています。「再び戦争を繰り返さぬよう祈念するため、この碑を建立した」と記していますが、いつまでもこの気持ちを日本人は忘れてはならないと思います。
わたしは、昭和19年に福岡市警固国民学校に入学しました。集団登下校、校舎に入る前には、運動場横の奉安殿(天皇の写真を安置した建物)に上級生の指導で最敬礼をしてから教室に入室したのです。1年生の後半に、父の転勤で、福間町に転校しました。近くは海、裏は松林で戦争とは無縁の地のようですが、福岡市と八幡市(現北九州市)の中間に位置していますので、空襲警報のサイレンが鳴り、そのたびにカバンを持って裏山に逃げ込みました。B−29の上空を飛ぶキーンという金属音が今でも耳に焼き付いています。八幡の空襲で、投下される爆弾の火の粉や、赤くなった夜空を近所の人たちと眺めていましたが、その被害状況は知る由もありません。 終戦直後に八幡市の小学校に転校し、八幡製鉄所近くの住家が焼き尽くされて、その後にバラックの家があちこちに建てられていました。幸いわたしの転校した小学校は焼失してなく、プールもある学校でした。戦後の学校生活の状況はもの不足の激しい状況でしたが、子どもは元気に楽しく学校に通っていました。わたしは、直接空襲にあって逃げまどうこともなく、被害にあった人に比べれば幸せであったといえます。
多くの尊い命を戦争のためになくした人たちのために、また未来を背負って立つ人たちのためにも、戦争を決して許してはならない、平和憲法を国是として残していくのが私たちの責務であると考えます。
(「平和憲法を活かす県民の会ニュース」No.903月25日号より転載)