自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
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資料  2006.01.27
あゆみ第4回口頭弁論参照

意見陳述一覧 参照

松島赫子 意見陳述 




第4回口頭弁論 

2006年1月27日 熊本地裁

原告 松島赫子
私の思い



私は原告団の一員の松島赫子です。2004年3月末日までの36年間、中学校で音楽の教師をしていました。現在は無職です。



1945年4月末に生まれた私に付けられた名前は「赫子(かくこ)」でした。男の子の誕生が期待されていたのに、そうではなかったので、急遽、当時の新聞やラジオの報道で使われていた「赫々たる戦果」にちなんで名付けられたということを物心ついた頃から幾度となく聞かされました。戦後何年という年数が自分の年齢と重なることや、社会科学的な視点を持つことの大切さを示唆してくれた人に出会ったこと等によって、私は自分の名前の由来や戦争というものについて中学生の頃から折にふれ考えるようになりました。

プロパガンダとして使われた「赫々たる戦果」ということばの意味がわかるようになって、悩ましい気持ちを抱き始めたのはこの頃でした。事実、日本が赫々たる戦果をあげていたとするならば、それは他の国の人々の生命や財産を奪っていたことを意味するのですから、そんなことばから付けられた自分の名前が本当にいやでした。

また、学徒動員された学生たちの手記を読み、軍隊の在り方に衝撃を受け、軍隊生活を描いた小説を読んだのも10代半ばの頃でした。その後、手記やルポ、文学等を通して、「沖縄」「広島」「長崎」、さらに東京や熊本の大空襲等、戦争当時の様子や戦争のもたらしたものを知るようになりました。しかし、それは被害の側に身を置いてのことでした。ナチスドイツのホロコーストについても本を読み、ドキュメンタリーを含めて映画も見ていたので、ドイツの加害行為と、その後の責任のとり方は知っていたし、また、「南京大虐殺」とか日本軍が性奴隷としたいわゆる「慰安婦」問題に関する本も読み、講演を聞いたりもしていたのに、日本の加害行為を深くみつめることを私は長い間していなかったのです。冒頭申しましたように私は教師をしておりました。教育実践の中で少なからず平和教育にもとりくみました。しかし、自分自身が生徒として学校教育の中で加害の側面をあまり学ばなかったように、自分の担当した子ども達にも日本の加害行為を殆ど語っていませんでした。



そんな私も中国の山地で日本軍の残虐行為で心身共に傷つきながら、ひっそりと生き抜いてきた人たちに直接会って話を聞いたことで大きく変わりました。日本と中国の歴史の真実を踏まえて友好的な関係を結ぼうと研究と実践を積み重ねてきた人達に導かれて、私は1997年河北省興隆県を初めて訪ねました。それ以来、私は既に興隆を6回訪ねて、100人以上もの被害者から日本軍が侵略した当時の様子を聞かせてもらいました。「三光政策」が徹底して行われた興隆は、拷問、強かん、虐殺、毒ガス使用等、日本軍の悪のサンプルがみなあると言われている所です。そこでの話は聞いていて体が震えるようなものばかりで、涙なしには聞けないことも度度でした。日本軍の残虐行為全般については本多勝一著「中国の旅」、興隆での残虐行為については仁木ふみ子著「無人区・長城のホロコースト」に記述されているのと同じ内容です。興隆の人達は話の始めや終わりに「今から話すことは不愉快なことかも知れませんが、事実あったことですからお許し下さい」「こんな山奥まで私たちの話を聞きに来てくれて感謝します」「昔ここに来た日本人は悪い人達でしたが、あなた達は平和の使者です」とつけ加えながら、本当はしたくもないであろう話を、したくもない相手であろう私達に心開いて話してくれました。真実を知りたくて訪ねて行った私達が耐え難い話を聞き続けることができたのは、被害の側の人々のこの優しさに支えられてのことでした。

私は興隆の人達の話を聞いたことで、戦争の実相がよく分かりました。侵略によって奪われた命を数字で括り、南京大虐殺等に関してはその数字をめぐる論争まで起きていますが、単に数字で括って考えるべきではなく、その一人、一人、一人…にそれぞれの暮らしがあったこと、それぞれが無念の思いと苦悶の中で命を奪われていったこと等を私達は深く想像しなければならないと思います。また、現代の戦争は開戦の時点で勝算ありと考えた側が始めるものだということもわかりました。「自分たちは家族が殺され、家が焼かれていくから、それらを守る為に闘ったが、日本兵は家族や家を日本に残して、なぜこんな所まで来たのでしょうか。ここで死んだ日本兵もかわいそうでした」というこの素朴な言葉は多くの中国人が「中日戦争」とは言わないことにもつながります。日本では「日中戦争」と言いますが、中国の人達は「侵華戦争・日本対華侵略戦争」或いは単に「抗日戦争」と言います。つまり、どのような大義を作ろうと、戦争の発端は侵略であり、された側はそれに抗せざるを得ず闘うのです。その意味でイラク戦争もまた、アメリカのイラクに対する侵略戦争と正確に言うべきです。


 
「テロと闘わなければならない」「イラクには大量破壊兵器がある」、世界一の大量破壊兵器をもつアメリカのこの開戦理由の矛盾と傲慢さに私達は無力でした。しかし今、大義は崩れ、テロとの闘いもまたテロであることが明白となり、強大な国家テロがさらなるテロを呼び起こしています。この現実は、原初の、そして弱者のテロの原因を考えることでしか解決の道が開けないことをも示しています。

この戦争は私に日本の侵略戦争を想起させます。ファルージャでの掃討は興隆での掃討を、劣化ウラン弾の使用や遺棄は日本軍の毒ガス弾の使用や遺棄を、といった具合に…。(昨年6月、私はハルピンで遺棄毒ガスによる被害者達に会いました。戦後何年も経ってから地雷の如く破裂した毒ガス弾によって中国では今多くの人が苦しんでいる事実に新たな衝撃を受けています)しかし、日本政府はこれまで日本の侵略行為を真摯にふり返り、被害の側にいる人々の声を虚心に聞くことをしてきませんでした。そのため、アメリカの侵略行為に逸速く支持を表明しただけでなく、法解釈をごまかしながら自衛隊を派遣することまでしてしまいました。これによって私は心ならずも加害の側に立つことになりました。それは同時にいつでも被害の側に立つ可能性があることも意味しています。つまり、私の平和的生存権が著しく侵害されたわけです。勿論、平和的生存権は私個人の権利ではありません。全世界の人々と共有して初めて確立できるものなのですから、その意味ではこれまでもずっと侵害され続けていたと言えます。それは次のような理由からです。

他者に脅かされることなく、穏やかに生きていく権利を私は「平和的生存権」ととらえています。誰かが暴力をふるったり、暴言を吐いたりしたら平和的生存権は侵されることになるし、不十分な福祉政策や不当な法律によって思想・良心の自由等が侵害されれば平和的生存権もまた、大きく侵害されます。

脅かされる主体は自分のみとは限らず、脅かされ、穏やかに生きられない人々の存在も私の平和的生存権を脅かすものとなります。何故なら、暴力をふるわれている人、飢えに苦しむ人、路上で生活せざるを得ない人等、そのような人達の存在を知ると私の心は穏やかではいられないからです。

ですから、これまでもずっと平和的生存権は侵害され続けてきたと思うのです。そして、日本政府はさらに大きな力で私の平和的生存権を踏みつぶし始めました。



開戦の時感じた自分の無力さは今も変わってはいません。しかし、無力だからといってあきらめ、傍観しているだけではいけないという思いから、私はこの裁判に参加しています。

戦争終結宣言後も多くの人が命を奪われ、イラクの情況は混乱するばかりです。アメリカの掲げた大義は全く通用しなくなりました。この戦争で誰が潤い、喜んでいるかも明らかです。幾つかの国は援軍を撤退させ、アメリカ本国でさえ停戦を求める声が高まっていると聞きます。それなのに、宿営地が被弾しても頑なに自衛隊の撤退を日本政府が拒否するのは何故か、理解に苦しみます。

”教え子を再び戦場に送るな”、これは在職中に私が所属した教職員組合のスローガンです。今となっては戦場に送られた隊員たちが、誰も殺さず、誰にも殺されず、一日も早く帰国されること、そして明日にも予定されている次の派兵が中止されることを願うばかりです。



世界の人々と平和的生存権を共有しながら生きていきたいという一市民のささやかな想いを是非司法の場で受けとめていただきたいと願っています。



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