自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
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資料  2005.08.01
あゆみ第2回口頭弁論参照

意見陳述一覧 参照

塩田直司 意見陳述

平和に生存するために


第2回口頭弁論 

2005年8月1日 熊本地裁

弁護士  塩田直司
意見陳述



1,混乱の現状

平和的生存権,この意味を今こそ,すべての人々が真剣に考えるべき時期にきています。

2002年(平成14年)3月20日,米国はイラクに対してを攻撃を開始しました。間もなくバグダットは陥落し,ブッシュ大統領は同年5月1日戦闘終結宣言をおこないました。。それから2年以上たった現在でも,イラクの情勢はまったく安定していません。それどころか,むしろ治安は乱れる一方で,反米武装勢力の自爆テロやテロ攻撃は激化しています。

9.11同時多発テロ以降,新たな戦争が始まったとも言われています。それは,テロとの戦争と表現されています。その意味では,戦争は終結していないと言わざるを得ないと考えています。

それどころかテロは,むしろ世界各地に広がっていると見るべきでしょう。

2004年(平成16)年3月11日,スペインの首都マドリードで,大規模な列車爆破テロがありました。約200名の犠牲者が出ました。翌日には,同国史上最大の800万人以上によるデモ行進が行われ,4日後の総選挙で,米英との緊密な「有志連合」を誇っていたアスナール政権が敗北し,社会労働党書記長のサパテロ新政権の下で,スペイン軍はイラクから完全に撤退するに至ったのです。

衝撃的だったのは,事件直後にマスコミが報道した「アルカイダ系の組織の犯行声明」とされるものの中で,「攻撃は反イスラム戦争で米国の同盟国である十字軍のスペインに対する報復の一部にすぎない」とし,「誰が,おまえ(アスナール首相)や英国,日本,イタリア,他の対米協力国を我々(の攻撃)から守ってくれるのか」と,日本を名指しで攻撃の対象としたことです。被告国による自衛隊イラク派遣のわずか2,3ヶ月に,我が国は既に米国ら占領国と同列に憎悪と敵意の対象とされたのです。

自衛隊のイラク派遣行為等に伴い,日本人に対する反感と憎悪が発生し,現にイラク国内において,日本人に対する人質事件や殺害行為が多数発生しました。2004年(平成16)年4月8日今井紀明,郡山総一郎,高遠菜穂子3名の人質事件,同年4月14日渡辺修孝,安田純平2名の人質事件,同年5月27日橋田信介,小川功太郎2名の殺害事件,同年10月31日香田証生の人質殺害事件が発生しました。

また,2004(平成16)年11月16日,陸上自衛隊が活動するサマワで,イスラム教シーア派のサドル派幹部のガジ・ザルガニは,同派指導部が「自衛隊は占領軍」と規定することを決めたとし,「自衛隊は復興支援のために来たと主張しているが,米軍やオランダ軍と同様に占領軍だ。われわれは占領軍と戦っており,日本もその戦いの(相手の)一部になった」と言明しました。サドル派の民兵組織は10万人規模とされており,同派は,公然と日本(日本国民)が攻撃対象であることを明らかにしたのです。

そして記憶に新しいところで本年7月7日の早朝の通勤時,サミット(G8首脳会議)が開かれていたイギリスの首都ロンドンで地下鉄と二階建てバスが標的となって少なくとも6ヶ所で爆弾テロがあった。平成17年7月21日付の報道によれば,同テロによる死者は56名,負傷者は700人以上と報じられました。 ラリー・オサリバン南カリフォルニア大学教授は「米国・スペイン・英国と続いているから,同盟国の日本が次の標的に選ばれてもおかしくはない」と語ったのです。
 
「欧州の聖戦アルカイダ秘密組織」を名乗るグループが「イラクとアフガニスタンでの虐殺への報復だ」と犯行声明をウェブサイトに掲載しました。治安専門家は通勤時の公共交通機関を同時無差別に狙った計画的な手口はマドリードの列車同時爆破テロに酷似していると指摘しています。
 
このように,米国のイラクに対する攻撃,支配に対する反作用としてのテロという名の戦争は世界へ広がり,今や日本もその標的となっていることを私たちは自覚する必要があります。私たちは,米国と同様にイラクの人々に対して加害者と見られていることを自覚する必要があるのです。

2,平和な日本に生きるとは

平和な日本に生きる権利,平和な日本に生存する権利とは,どのような思想によるのでしょうか。第2次世界大戦で,日本は特攻と玉砕という自殺攻撃に走りました。トルーマン米大統領は大統領就任に際し「もし日本国民が軍人に協力するならば老人、子供、婦女子を問わず爆殺する」とのビラを日本に配布したといいます。その言葉通りに、原爆と空襲による虐殺を受けて日本の戦争は終わりました。
 
私たちにとって「戦後」とは一体何だったのでしょうか?私たちが生みだし、また私たちが被った、あの膨大な死は一体なんだったのでしょうか?私たちは攻撃に対する復讐を放棄し、血にあがなわれた平和を守ることから始まったのです。憲法9条を守ることは,平和を守ることは,安穏としては実現されない,これは生命の闘いです。
 
最近,亡国のイージスという映画を見ました。『亡国のイージス』とは、劇中に登場する論文のタイトルという設定ですが、そこで批判されているのは平和ボケしている現代の日本です。物語の中では「現代日本は命を懸けて守るに値するか否か?」という問いがなされていましたが、映画自体はこれをあまり深追いしてはいないので,まだ救われます。しかし平和は尊いものであるのに、また,あるべき状態なのに,それに「ボケ」ということばを続けて「平和」をマイナス化しようとする,使用方法に私は賛同できません。平和を維持できたのは,日本国憲法前文でうたっているように憲法9条を守ろうと不断の努力をおこなってきた私たちの先人の努力があったからこそなのです。
 
攻撃と復讐の連環を絶ち,加害者の立場に立たないことを憲法で宣言していることは崇高なものであると考えます。平和な日本に生存する権利とは,まさにそのような思想に裏打ちされているものなのです。

3,私たちが求めるものは

平和的生存権は私たちの生命身体などに関わる権利です。戦争状態になった場合には,この権利はたちどころに失われる,また危ういものです。その権利は,予防的効果こそ本来の意味があると言える考えます。所有権が侵害されるおそれがあるときに,その侵害を予防できる物上請求権が認められていますが,平和的生存権こそは,侵害を予防できなければその権利を充分守ることができず,またひとたび侵害されれば,回復が非常に困難な権利です。従って,平和的生存権による差し止め請求は認められなければならないのです。
 
今日の緊迫した状況において,もはや投票箱による是正によっては,平和的生存権を守ることが困難の事態になっています。今こそ積極的に裁判所が憲法の番人たる役割を果たすべき時だと考えます。

以 上


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