自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
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資料  2007.09.10
あゆみ第10回口頭弁論(原告本人尋問)参照

意見陳述一覧 参照

[6]山本あやさんの本人尋問(本人調書)

(年齢90歳)



第10回口頭弁論
2007年9月10日 熊本地裁

原告:山本あや




原告ら代理人 (板井優)


甲第67号証を示す

 1
これはあなたがした話を私が清書して,間違いないということで捺印されたものですね。
はい。
 2
あなたは1917年に江戸時代以来の商人町である熊本市新町に生まれたのですか。
間違いありません。
 3
あなたの実家は 「木津屋」といって,江戸時代からの造り酒屋でしたが,我が国の内戦と言われる西南戦争のときに焼けたんですね。
そうです。
 4
あなたは1936年4月からこの裁判所の近くにある壺川小学校で教員をしてたのですか。
そうです。この裁判所のすぐ横の,確か観音坂と言っていたと思いますが,そこを下りてすぐの壺川校に毎日通っていました。
 5
あなたは太平洋戦争が始まったころに軍国主義的な教育を教えたそうですが,簡単に言うとどういうことを教えたのですか。
「日本よい回清い国,世界で一つの神の国」,神様の国だから負けることはない,こういう考え方のこもっている神話をたくさん盛り込んだ教科書を教えなければなりませんでした。また一方では事が起きたら天皇陛下のために命を捨てて頑張りなさいということを繰り返し繰り返し教えなければなりませんでした。こういう中で子供たちは軍国主義,軍国少年,軍国少女として育てられていきました。
 6
あなたの教えてた学校の児童で先の戦争に行った方もいましたか。
はい。直接,間接に教えた子供,またその兄弟などが十四,五歳の身で志願をして陸,海,空の少年兵として戦場に出ていきました。
 7
あなたは1945年8月10日の熊本空襲を体験したそうですが,当時壺川小学校はどういう状況だったのですか。
毎日空襲があるので学校は休みでしたけれども,B29が新築されたぱっかりの体育館に焼夷弾を雨のように降らせました。バケツリレーの練習をしておりましたが,何の役にも立ちませんでした。瞬く間に燃え広がりました。その体育館の隣に給食室がありましたけれども,その給食室に平釜といって100人ぐらいの御飯を炊く釜がありました。きっとこれが必要になるんじゃないかと思って先生たち何人かと水をかぶって給食室に飛び込んでこの平釜を持ち出しました。その夜は校区の焼け出された人たちにこの平釜で炊き出しをして配りました。
坪井から下通まで遮る物のない焼け野原となりました。
 8
あなたはその前日,前の日に壺川小学校の防空揚がらこの熊本地裁の裁判所を経て金峰山の向こう側にきのこ雲を見たんですか。
空襲がありましたので,校庭一杯に掘ってある防空壕に入っていましたが,首を出して眺めたら金峰山の山の上に何とも言えない不気味なきのこ雲がむくむくと盛り上がっておりました。何だろうと思ったんですが,ラジオでは今長崎に新型爆弾が落とされましたということを絶叫し続けておりました。これがあの地獄のような原子爆弾であったと知る由もございませんでしたが,本当に不気味なきのこ雲でした。
それを話すと,そぎゃんは見ゆるはずはなかけんて言う人がいますけれども,そのころは高い建物はほとんどありません。だから一望のもとに金峰山のきのこ雲が見えました。
 9
戦後熊本にも米軍が進駐してきましたが,あなたは学校でどういう対応をしましたか。
進駐軍がやってきたら何をされるかも分からんと,鬼畜米英ということで戦ったんだからその証拠をなるだけ消してしまわんといかんというようなことでやった一番目のことが教科書を墨で消すことです。危ないなと思うようなところは全部子供に墨で消させました。もともと戦うために作ってある教科書ですがら,あっちもこっちも黒い墨で塗りつぶして,何が書いてあるか訳の分からないような教科書になりました。その教科書で勉強を教えなければなりませんでした。もう一つ,学校にたくさんのいい本がありましたが,この本の中にも八紘一宇とか何とか書いてるのはやっぱりこれも危ないじゃないかということになって,私は図書係でしたので,これはいいと思われる本もごみ捨て場の焼却炉のところに持っていって毎日毎日焼きました。本を焼く煙が毎日絶えませんでした。大変残念な,惜しいことをしたと今でも思っております。

甲第82号証を示す

10
戦後あなたは文部省が作成した中学生向けの 「あたらしい憲法のはなし」を読んだことがあるそうですが,そのときにどう思いましたか。
施行されて10月たって文部省がこの 「あたらしい憲法のはなし」を出しました。中学1年生を教える教員はもちろんですけれども,小学校も高等学校もいろんなところの学校の教師たちはもう飛びつくようにしてこの憲法の話を読みました。皆さん,お父さんや兄さんが戦場に行って帰っておられない人もあるでしょう,こんな恐ろしいこと,こんな悲しいことが二度と再びあってはいけないと思いませんかという呼びかけの下に書かれたこの憲法の話,この中に絶対にそういう恐ろしい戦争はしないということが書いてある,そして国の主人公は国民であるということが書いてあるということを大きな喜びを持って,感動を持って読んだということを覚えています。今もこれは子供や大人の素晴らしい教科書だと思っています。

甲第80号証を示す       (※「輝け!いのち」山本あや著)

11
これはあなたの戦後の経歴や活動歴や考え方,このことを書いたんですね。
はい。
12
あなたは教え子を再び戦場に送らないという御主張を持っており,その関係では一定の実践もなされてるんですね。
私は戦争中に,さっき言いましたように,軍国主義教育で教え子を戦場に送り出し,命を奪いました。そういう過ちを反省して,戦後は絶対に教え子を再び戦場には送らないということをほかの教師と誓い合いました。そのためには教育の中身もそうでなければなりません。さっき申し上げましたような,うそを教えるような教育ではだめです。
真実を教える教育でなければなりません。今,慰安婦の問題とが集団自決の問題で,あったことをないと教科書に書くように言っていますけれども,絶対にそんな教育ではだめです。そして侵略戦争を聖戦と考えるような考え方でもだめです。徹底した平和主義でなければならないと思っています。自分の子供,そして教え子,そして国民のすべて,あの赤紙1枚で戦場に行ったような,そういうことが再び行われないように,是非戦争のない世の中をつくっていきたいというふうに思っております。
13
あなたは熊本県内自治体の非核都市宣言運動などをこれまで取り組まれてたようですが,そのことについて述べてください。
原水爆禁止の運動をやっていて,軍縮会議がありましたので,日本の代表としてイギリスとドイツに行きました。イギリスに行ったら,イギリスでは171の市町村が非核都市宣言を出していました。自分の町の上は絶対に核を積んだ飛行機は通さんと,私はそれを見てこれだと思いました。徹底して各市町村が非核都市宣言を出すというこの運動を日本に持って帰ってやろうと思って帰ってきて,早速,会を作って訴え始めました。天草でも矢部でも人吉でも宣言を出して碑を建てました。ほとんどの市町村がこの非核都市宣言を出しました。非常にいいことです。しかし合町村合併その他でこれが薄れておりますので,再確認をしながら強めなければならない,今の情勢からいってさらに強める必要があると思っています。
14
最後に聞きますが,あなたがイラクへの自衛隊派兵に反対する理由を述べてください。
テレビで見ていますと,子供だちが粉々になって吹き飛ぶ、そういう映像もあります。テロで300人死んだ,銃殺して30人がやられた,罪のないイラクの国民が次々に命を失っております。アメリカは占領
をするときに,イラク国民を解放して自由をということを言ったはずです。しかし,今のイラクの国民に本当の自由はありません。飢える自由,貧困の自由,病気になる自由,殺される自由はあっても,真に人間らしく生きていく自由はないと思います。こういう基を作っているアメリカ,それに手を貸している日本,イラクの人たちがアメリカの仲間である日本の自衛隊は早く帰ってほしいというのは当然だと思います。アメリカの武器や弾薬,アメリカ兵は運んでいるんですから当然だと思います。もともとイラクに世界の38の国が駐留していましたけれども,だんだんにやめた,やめたと言って引き揚げて,今は半分以下になっております。アメリカでも1日も早く軍隊を引き揚げようと言っております。平和憲法を持つ日本でこそ1日も早く自衛隊を引き揚げ,本当にイラク国民の手によってイラクを建設するというふうにされるべきでほないだろうかというふうに心から願っています。

以  上     
    






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