自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
ホームあゆみ会員募集リンク問い合わせ


資料  2007.02.・・
あゆみ第10回口頭弁論(原告本人尋問)参照

意見陳述一覧 参照

中山清隆 意見陳述書 



熊本地方裁判所御中

陳 述 書


      原告 中山清隆     

私は、1936年生まれ、70歳です。熊本市で育ち、米軍機による空襲を何回も経験しました。今も、B29が空を真っ黒に埋め尽くすほどに、「ブンブン」と不気味な音を立てて飛んでいった様や日本軍がそれをめがけて発射する高射砲の弾がはるか下のほうで炸裂するのを、歯噛みをしながら眺めたこと。低空からグラマン戦闘機が放つ機銃掃射の音などが、はっきりと耳に残っています。

やがてお寺や病院などでの分散教育が行われるようになり、1945年いよいよ戦火が激しさを加える中、父の郷里である現在の南阿蘇村立野に疎開しました。それは、国民学校3年生の5月でした。7月の夜半。熊本市が真っ赤に燃えるのを、我が家の庭から眺めて、オンオン泣いたのを覚えています。やがて終戦。校庭で何を言っているのかほとんどわからない「玉音」放送を整列して聴き、校長先生から「日本が負けたのだ」と説明を受けたときには、「最後には神風が吹いて、日本は必ず勝つ」と教え込まれ、それを信じて疑わなかった私たちは、みんなそこに泣き伏してしまったものです。それほどに、私は「軍国少年」でした 。

戦後の暮らしは、まったく悲惨なものでした。南米ペルーで20年間汗水たらして働いて蓄えた財産を、「戦争に勝ち抜くため」として供出したり、国債に変えてしまっていた両親は、紙切れ同然になってしまった国債を含め、そのほとんどを失ってしまいました。田舎にいても食べるものはなく、わずかに残っていた衣類を食料に変える「たけのこ生活」で飢えをしのぐ毎日でしたから、食べ盛りの私などが考えることは食べることばかり、「青びょうたん」とあだ名されるような痩せひこけた少年でした。学徒動員で長崎三菱造船所で働いていた兄が、原子爆弾の放射能を浴びて、命からがら家に帰ると、何日間も起き上がれずに寝込んでいたのも、はっきりと覚えています。

教科書を真っ黒に塗りつぶし、「憲法のはなし」という小冊子が渡され、その教育を受ける中で、私たちは初めて戦後を実感し、第9条の意義や民主主義の重要性を学び、「戦争を二度と繰り返してはならない」と考える少年に生まれ変わったのです。

このような少年時代を送った私などにとって、日本が再び海外に「戦争をするために出かける」ことなど、まったく考えられない、本当に信じられない出来事でした。

今回のイラク派兵では、憲法が歯止めとなって、武器の使用はありませんでしたが、すでに香田証生さんをはじめとする日本人犠牲者が生まれ、帰還した自衛隊員の中でさえ、現在わかっているだけで7名の自殺者が出ているというではありませんか。

ブッシュのお膝元であるアメリカ国内で「イラクから直ちに撤退せよ」の世論が燃え上がり、国会で「増派反対決議」が圧倒的多数で可決されるという中で、なおも、「アメリカのイラク戦争は間違っていなかった。自衛隊派遣は正しかった」と繰り返し、「イラク特措法」を延長してまで、アメリカを後押しする日本政府の姿はまさに異常、狂気の沙汰と言わなければなりません。

憲法9条によって打ち立てられた日本の国際的な信頼は、今大きく損なわれつつあります。ここまでブッシュを先頭とする戦争推進勢力に追随して恥じない日本政府の情けない態度が続く限り、日本はますます世界の孤児にならざるを得ないでしょう。それは日本国民を再び、不幸な道連れにする道であり、絶対に許すことが出来ないことです。戦争を経験していない世代が増える中で、一部に戦争を賛美する世論が生まれつつあることは事実ですが、しかし、にもかかわらず日本国民の多くは、「日本が再び戦争が出来る国になること」を望んではおりません。これは各種の世論調査でもはっきり示されています。世界中の世論もまた、被爆国日本、戦争放棄の憲法を持つ日本が今こそ、戦争ではなく、平和のために先頭にたって頑張ってくれることを期待しています。

裁判所はぜひとも、この訴訟にこめられている私たちの切実な思いをしっかりと汲み取っていただいて、正義の審判を下していただきますよう、心からお願いいたします。                            

2007年2月



  


このページの上に戻る