自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
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資料  2006.10.03
あゆみ第10回口頭弁論(原告本人尋問)参照
      (ニュースレター14号)
意見陳述一覧 参照

田中信幸 意見陳述書 



熊本地方裁判所御中

陳 述 書


      原告 田中信幸     

私は原告の田中信幸と申します。1951年(昭和26年)生まれで現在55才です。仕事は自営業(電気工事業)を営んでおります。

私は戦争体験はありませんが、父が1937年(昭和12年)の中国侵略戦争開始から敗戦まで3回も招集され、何度も敵弾で負傷しながらも奇跡的に生還した経験を持っていたことから、父の戦争体験談を通じて父たちの世代がどのような体験をしたのか、その時どんな思いでいたのかなど自分なりに必死で考えてみたことがあります。このことが、今日私がイラク派兵違憲訴訟の原告になったことと深く関係しています。

1,父の戦争体験に学ぶ


父は残念なことに今年5月23日に死亡しました。91才でした。父は中国侵略戦争(当時の言葉では『支那事変』)当時熊本の第6師団歩兵13連隊所属でしたが、1937年(昭和12年)7月27日に動員命令が下りるその日から、翌年9月負傷して内地に帰るまでの日記を残しています。

その日記はとても貴重な物ですが、その中では人殺しの経験がない皇軍兵士たちが、いかにして殺人鬼へと鍛えられていくかが描かれていました。それは朝鮮半島を北上して中国の天津についた時のことです。父は10名くらいの部下を持つ分隊長でしたが、ある日の日記に「便衣隊を斬る」という段落があります。「〇〇中尉殿一刀のもとに斬らる。わが分隊一剣づつ突く」と書かれています。この時の経験はよほど父にとってショックであったようで、私にも話してくれた記憶があります。その時父は気が動転して、夕食も喉を通らなかったそうです。その後一週間日記になにも記録していないことからも父の動揺ぶりは手に取るように分かります。天津には約一ヶ月くらい滞在していますが、その後二度、「便衣隊を斬る」という記述があります。しかしこの二回はほんとうに事務的に記述されているのが印象的です。つまり、人殺しに無感覚にされていくのです。

「便衣隊」とは中国服を着た中国軍兵士や、抗日ゲリラ兵士のことであると辞書には書かれていますが、この時日本は中国に宣戦布告をしているわけでもなく、現地の日本軍がとらえてきた中国人を誰彼かまわず「便衣隊」と呼んでいたのではないかと推察されます。捕らえられた中国人は国際法に則った裁判に掛けられることもなく、捕虜の扱いも受けることも出来ませんでした。日本軍に捕らえられたが最後、人殺しの実験台にされるのですからたまったものではありません。父たちの分隊だけでも天津で少なくとも三名の中国人を人柱にしていますから、歩兵一三連隊だけでいくつの分隊があったかわかりませんが、他の日本軍部隊がほぼ同じような殺人経験を兵士たちに積ませたとすると、膨大な数の中国人が犠牲になったと推察されます。

父の日記はその後南京攻略戦へと続きます。相当の激戦であったことが記録されています。父は南京占領の翌日、第6師団の坂井旅団長の衛兵として南京政府の主要施設の視察に同行するなど貴重な体験もしているようです。ただ父の部隊は南京城内には3日間しか滞在せず、奥地の蕪湖へ出発しており、占領後の城内掃討戦には従軍していないことが判明しました。徐州作戦の過程で1938年6月に敵弾で足を撃たれ、9月に内地送還となるまで、日記は書かれています。

私は子どもの頃は父の手柄話に心躍らされることもありましたが、高校生から大学へと進む頃になるとちょうど本多勝一氏による『中国の日本軍』など一連のレポートを読む機会に恵まれたりして、父たちの参戦した戦争は侵略戦争であった確信するに至りました。大学時代、実家に帰ると必ずと言っていいほど父と過去の戦争をめぐる議論となりました。侵略戦争の事実を認めろと迫る私に、父は仕方なかったのだというのです。こうした論争を10年以上続けた記憶があります。しかし話し合ううちに、誤った国策によって甚大な被害を受けた当時の国民の姿も見えるようになりました。

父は二度目の招集で1941年8月から43年まで「ソ満国境警備」の任務に就いていますが、このころはソビエトとの戦争はまだ始まっておらず、比較的静かな情勢であったようです。そしていよいよ戦局が不利になった三度目の招集(1944年)では、広島でモーターボートに爆薬を積んで敵艦に体当たりする水上特攻隊の訓練を受け、「ボルネオ派遣軍」として南方に船団で送り出されたそうです。ところが台湾からフィリピンに渡る途中で、制海権をアメリカに奪われていたバシー海峡で敵潜水艦の攻撃を受け、船団5隻の内4隻が撃沈され、かろうじて父たちの1隻のみがフィリピンに着くことが出来たといいます。フィリピン到着後直ちに生き残った兵士たちは「比島派遣軍」に改組され、米軍の猛攻撃を受けながら、ルソン島のジャングルを逃げまわる状態だったといいます。父は米軍の攻撃による砲弾の破片で負傷し、動けなくなったために部隊から取り残されたそうですが、前進した部隊はほとんど全滅し、父など数名が生き延びたといいます。1945年9月の中旬になってようやく日本が負けたことを知り、降伏したそうです。その後1年間米軍の捕虜収容所で拘留されたあと、46年秋に日本に送還となりました。かろうじてフィリピンに上陸した兵士約1200名の内生き残ったのは23名であったと父から聞きました。

父が所属した「ボルネオ派遣軍」など一緒に船団を組んだ日本軍兵士は概算で6000名はくだらないでしょう。これに民間の船員などを加えるともっと多くの国民がバシー海峡で、そしてフィリピンのジャングルで殺され、たった23名が生き残るという悲惨な結果となったのです。これは父が関係した戦場だけの数字であり、その他ガタルカナル島はじめ北はアリューシャンからビルマなど日本が侵略した地域すべてでこのような事態は起きています。フィリピンでは武器も食料もなく、米軍や地元ゲリラ部隊との戦闘以上に「飢えとマラリア」との戦いであったと父は話しました。帰国後も父はマラリアと負傷した顔面の後遺症治療に10年くらい悩まされました。

こんな無謀な戦争に国民を動員した責任を誰が取るのか。私は父の戦争責任以上に、国民を犠牲にしてのうのうと生き延びている最高責任者である天皇裕仁に腹が立ちました。また東条英機を筆頭とする軍部、政治家、民衆を徹底弾圧した特攻警察などが戦争犯罪人として裁かれたのだと思っていました。しかし事実はそうではなく、日本人自身による戦争責任の追及がドイツなどと比較して不徹底であり、特攻警察官僚や731部隊で毒ガス実験に関わった人物などが戦後社会の中枢に居座っている事実。その象徴が戦犯であった岸信介が戦後首相になれるのですから、アジアから見れば、一体日本は戦争責任を取る気があるのかということにもなります。

私は父が戦争に3回も動員され、しかも奇跡的とも言うべき生還を果たし、この世に生を受けたことに感謝しています。しかし、父たちがアジアの民衆に与えた侵略の事実について日本政府と関係者による正式な謝罪と和解もなされておらず、未だ完全に果たされていません。こうした侵略戦争への反省とともに、父と同じように誤った国策によって侵略行為に加担させられ、犬死にさせられていった兵士や多くの国民の存在に気付き、こうした人々の無念さ、怒りを自分なりの背負っていこうと強く思うようになりました。私は議論していくうちに父に向かって「あなたの戦争責任を私も一緒に背負いたい」と告げました。私の一方的な宣言に父はとまどいを見せましたが無言で頷きました。


2,平和憲法との出会い


私は仕事に就いてからも市民運動を続けました。特に部落解放運動や、平和運動に参加してきました。私が憲法と直接向き合うこととなったのはカンボジアへの自衛隊派遣が問題になった頃からです。

戦争の反省が日本社会できわめて不徹底にしか行われていない状況下で、教育の方面では国家主義に梶を切ったような文部省の「日の丸」「君が代」の押しつけや政権与党による「靖国参拝」が繰り返されるなどの動きが顕著でしたから、私が心配する軍国主義復活の方向へ日本が進むのは間違いないという思いが強くなりました。

「『日の丸』『君が代』の押しつけはごめんダ熊本ネットワーク」(1998年結成)やPKO派遣が決まる頃には「自衛隊の海外派兵に反対する熊本市民フォーラム」(1992年結成)などの市民運動に参加しました。特に熊本の第8師団からもPKO派遣部隊がでるということで、様々な取り組みを行いました。その中でも自衛隊に対する申し入れだけでなく、自衛隊官舎へのチラシ配りにも相当力を入れました。仲間たちと一緒に合計で5回くらいは熊本市にある健軍と北熊本の官舎全戸へのチラシ配りと宣伝活動を行いました。また自衛官ホットラインを準備し、電話での悩み受け付けも行いました。官舎へのチラシ配りは各住居の新聞受けにチラシを配るとともに、ドアをノックし話が出来るところでは玄関で立ち話をすることもたびたびでした。ただその時はこうした活動に自衛隊からの妨害もなく、自由に立ち入ることが出来ました。

私たちは憲法で保障されている表現の自由はまだ守られているのだと受け止めていましたし、まさかこの憲法下でこうした権利が侵害される時代が来ようなどと考えてもみませんでした。

ただ、全国ではPKO派兵に反対する違憲訴訟も始まっており、カンボジアに派遣された文民警察官とボランティアの2名の日本人が殺害されるという悲惨な事態も起きていました。その後ザイールやゴラン高原などへのPKO派遣が行われ、私たちは第8師団からの派遣に反対して大衆運動の力でこれを止めさせるべく様々に活動しました。しかし、憲法違反のなし崩し的な派遣に対して、違憲訴訟を起こしてでも反対すべきではなかったかと今でも悔やまれます。

その後私は96年に設立された「平和憲法を活かす県民の会」の運動に参加して、憲法を日々の暮らしに活かす活動に取り組みました。

3,イラクへの自衛隊派兵と表現の自由

私は米国ブッシュ政権が2001年「9.11テロへ」の報復としてアフガニスタンへの戦争に踏み込んだ時、これを日本政府小泉政権が無条件で支持し、直ちに「テロ特措法」を制定してアラビア海で多国籍軍への給油活動で支援を開始したことに対して、憲法違反の集団的自衛権の行使であるとして強く抗議しました。しかしブッシュ政権はこれに満足せず、次はイラク攻撃に突き進みました。これは国連憲章を踏みにじる「先制攻撃」「予防戦争」などの理屈を振りかざしたまさに侵略戦争です。今日では、米議会でも戦争の口実とされた「大量破壊兵器」も「ビンラディンとのつながり」も完全にでっち上げられたものであることが報告されています。この戦争を小泉政権は無条件に支持し、憲法の枠を完全に超える武装した自衛隊の戦場への派兵を決めました。

私は今度こそ違憲訴訟を起こしてでも闘うべきであると強く意識するようになりました。ちょうどそのころ、2004年2月27日、立川自衛隊監視テント村のメンバー3名が立川の自衛隊官舎のポストに自衛隊イラク派兵反対のチラシを配ったことが、「住居侵入罪」に当たるとして逮捕・起訴される事件が起きました。この結果、全国で、これまでできていた自衛隊官舎へのポスティングが、事実上できなくなりました。

私はPKOの時のように熊本でも再び自衛隊官舎へのビラまきを計画していましたので、この報道はほんとうにショックでした。実際健軍の官舎へ確かめに行くと、「無断立ち入り禁止」の立て札が立てられています。北熊本も同じでした。その後東京では政党の議会報告をマンション内でポスティングしたとして逮捕されるなどビラ配布に対する弾圧が続きました。
この弾圧は露骨な憲法違反事件です。憲法21条が保障する私自身の政治的表現の自由を侵害しているだけでなく、自衛官及び家族の政治に参加する権利、知る権利も侵害しているからです。自衛隊官舎だけが市民社会から隔絶された特別地域ではありません。自衛隊員とその家族は地域住民です。防衛庁などが主張するとおりに進めば、自衛隊官舎に対してイラク派兵反対だけでなく、選挙時の政治的なチラシや、地域社会で起きる重要な問題を考えるチラシ配りについても当然「自粛」せざるを得なくなります。逮捕覚悟でチラシ配りをやろうという人はなかなかいません。こうなると自衛隊員と家族は地域社会から排除される関係が生まれます。

これは私自身の政治的表現の自由だけでなく自衛官とその家族の人権を侵害しています。PKOの時代は自由に出来たことが、イラク派兵の時代には法律違反で起訴されるなどというでたらめを通すなら、日本は法治国家・立憲主義の看板を捨てなければならないと強く感じて、憲法が保障する平和的生存権を絶対に守り抜くために熊本で訴訟を起こそうと決めました。。
これはまた今年亡くなった父との葛藤の末に私自身が誓った「父たちの世代の戦争責任をともに背負う」という私自身の生き方でもあります。

4,裁判所は違憲立法審査権を発動して下さい

イラク戦争は、国際法的には全く根拠のないアメリカらによる侵略戦争でした。そのような侵略戦争がどのようなものであるか、原告と弁護団は、様々な新聞記事、画像、ルポルタージュなどを証拠として提出して示しています。その戦争に日本政府は即座に全面支持をし、自衛隊を派遣して活動を支援しました。開戦理由とされた「大量破壊兵器」「ウサマビンラディンとのつながり」などすべてが偽りであったことが米議会で確認されても、小泉首相は自らの開戦への同調・支持の姿勢を変えようともしませんでした。

復興支援目的で派遣された陸自部隊が帰還しても、アメリカの軍事行動そのものを支援することになる軍事物資、兵員等を輸送する航空自衛隊による活動(兵站活動)は今なお継続され、これが更に拡大されようとしているのです。自衛隊が戦地に輸送した米兵がイラク人を攻撃し、自衛隊が輸送した兵器がイラク人を殺傷する。日本も戦争に参加し、何の罪もないイラク人の男、女、子供たちの殺傷の手助けをしているのです。

平和憲法の下にありながら、このようなことを強行している政府に対する私たちの「義憤」や「不快感」や「焦燥感」は単なる個人的な感情にすぎないのでしょうか。それは、無視され、蹂躙された、法や正義の回復を求める気持ちから生じるものです。そのことを法の守護者であるはずの裁判官に是非ご理解頂きたいのです。

私は、政府の行為が、自分の政治的な主義・主張や価値観に違反していることをもって精神的苦痛を被ったと主張しているのではありません。そのような個人的な主観を問題にしているのではなく、立川事件控訴審で東京高裁が有罪判決を下したことなどの事情も加わり、政府の行為が明らかに憲法9条など平和主義の定めに違反し、私の自衛隊官舎へのチラシ配布を行いたいとする政治的表現の自由を抑圧し、同時に自衛隊員とその家族の人権も侵害しているにもかかわらず、それを無視し、違反の行為を強行していることに精神的苦痛を被っていると主張しているのです。

日本国憲法も前文で述べているように、日本は、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・・・そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という体制をとっています。その意味では、日本は、「間接民主制」を採用しており、基本的には、国会での議論を尽くして、最終的には多数決原理によって政策決定がなされるものです。

しかし、その一方で、憲法99条は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」としており、立法、行政、司法の公務を行うあらゆる者に対して、憲法擁護義務を課しています。更に、政府の行う憲法違反行為に備えて、81条によって、裁判所に違憲立法審査権が付与されているのです。つまり、日本国憲法は、立法府、行政府を全面的には信用せず、その逸脱を牽制する役割を司法府に与えたということです。

第二次大戦に至る過程において発生したナチズムや全体主義は、それまでの議会制民主主義(間接民主制)のあり方に大きな反省をもたらしました。民主主義の手法を用いて民主主義を否定する者が権力を得ることが可能となる、間接民主制のこのような落とし穴を、第二次大戦を通じて民衆は痛感したのです。

このような反省にたって設けられたのが、違憲立法審査権であり、政治権力を有する者に課す憲法忠誠義務、憲法擁護義務なのです。

したがって、違憲立法審査権は、「間接民主制」が、それ自体を否定するような方向に暴走することを是正するチェック作用として機能するものであって、「間接民主制」を超えるものです。こと憲法違反については「間接民主制」は解決にはならず、その行為の正当性を担保するものとはならないということです。現に小泉内閣とそれを受け継いだ安倍内閣は憲法擁護義務に完全に違反していると言えます。

問題は、政府の行為が憲法違反であるということなのであり、上述の違憲立法審査権の意義付けからすれば、「間接民主制の論理」つまり議会に於ける多数決で解決するという方法は、政府の憲法違反の行為を問題とする場合には当てはまらず、その枠では解決できない問題として扱われるべきなのです。これは、憲法が違憲立法審査権を裁判所に付与している以上、当然の帰結であって、それを認識しながら、もしも「間接民主制」を持ち出し、裁判所が介入すべきことではないとすることは、その権限の放棄であり、職責を怠ることといわざるを得ません。裁判所は違憲立法審査権を発動して頂くよう心からお願いします。

以上

      2006年(平成18年)10月3日


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