自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
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資料  2007.01.22
あゆみ第10回口頭弁論(原告本人尋問)参照

意見陳述一覧 参照

上村文男 意見陳述書 



熊本地方裁判所御中

陳 述 書


      原告 上村文男     

                        
私は、1929年(昭和4年)に生まれました。その2年後に、所謂15年戦争が始まり、幼少期から青年前期まで、超国家主義・軍国主義の国家体制下の学校教育により、天皇のため、国家のために身命を惜しまない軍国少年に育てられました。

第二次大戦末期の1944年9月、中学校3年生の時、学徒勤労動員により、私達は今の陸上自衛隊西部方面総監部一帯に在った三菱航空機製作所で陸軍重爆撃機の生産に携わりました。その後空襲を避けるため工場の疎開が始まり、翌年8月15日の敗戦の時は、この裁判所が在る京町台地の下で地下工場建設作業にあたっていました。

その年7月1日の熊本市大空襲では、わが家は全焼し、家族は別れ別れに過ごすことになりました。友人の一人は焼死しました。それでも私達は、必勝を信じて働き続けました。

徹底した超国家主義教育で、軍国少年となった私達は男子の殆どが軍人志願で、天皇のために死ぬことを恐れず、「人生二十五年」と唱えていました。同年齢の女子学生も「私達と同じ年頃の男子の方は、もうすでに、死を決して大君の醜の御楯となって大東亜の建設の為め、引いては世界に向かって皇道宣布の為め、少年航空兵として南に北に散ってゐるではないか・・・・。『もう僕は二十五までだよ』と友人のお兄さんは言われたそうだ。何という尊いそして美しい言葉だろう。」(原文のまま 熊本県教育会機関紙『熊本教育』一九四四年二月号特輯女子挺身隊の手記より)と感動して兵器増産に携わっています。これが当時の私達の心境でした。そのため敗戦のショックは物凄いものでした。


4年後の1949年4月、私は現在の上天草市大矢野町で公立中学校教師になりました。この2年前に新憲法が施行されています。公務員ですから当然憲法99条により憲法尊重擁護の義務を負いました。政府も新憲法の理念を国民に広く普及するために数々の施策を実施しています。その中に政府関係が出版した新憲法に関する二つの小冊子を今でも大事にして持っています。教師となった私の憲法観の原点となったからです。特に9条に関する記述は、戦場体験はありませんが軍国主義教育、勤労動員、空襲体験等を経験した私にとって心に強く響き、その後の私の信条となっています。


小冊子の一つは、1947年8月発行の文部省著作発行の『あたらしい憲法のはなし』で、これは中学校社会科用教科書です。この中の戦争放棄の項でこう書いてあります。

「・・前略・・今度の憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。『放棄』とは『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとうそうとしないことをきめたのです。おだやかにそうだんして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。

みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度と起こさないようにいたしましょう。」

はじめて教師になった時、この教科書で生徒と共に新憲法を学びあいました。戦後4年を経過していましたが、平穏なここ天草の農魚村にも無謀な戦争の後遺症がありました。父、兄を戦争で亡くした子供たち、家族と一緒に朝鮮、中国、台湾などから引き揚げて来た子供たち、シベリアに抑留されている身内の帰還を待つ子供たちが何人もいました。子供なりの戦争体験を持つ生徒達は、この教科書で、平和・民主主義・基本的人権を大事にする新憲法の理念を学ぶことが出来ました。


もう一つの小冊子は、新憲法の理念が日本国民に広く普及することを願って1947年5月3日憲法施行の日に発行され、国内の全所帯に配布された憲法普及会編『新しい憲法明るい生活』です。この憲法普及会の会長芦田均氏は、外交官出身、新憲法制定時衆議院の憲法改正特別委員会委員長で、その後外務大臣、総理大臣となった人です。彼は、この小冊子の冒頭で「新しい日本のために」と題した発刊のことばの中でこう述べています。

「新憲法が大たん率直に『われわれはもう戦争をしない』と宣言したことは、人類の高い理想をいいあらわしたものであって、平和世界の建設こそ日本が再生する唯一の途である。今後われわれは平和の旗をかかげて、民主主義のいしずえの上に、文化の香り高い祖国を築きあげてゆかなければならない。新憲法の施行に際し、本会がこの冊子を刊行したのもこの趣旨からである。」そして冊子の中で「もう戦争はしない」の標題で9条をこのように解説しました。

「私たち日本国民はもう二度と戦争はしないと誓った。(第九条)

これは、新憲法の最も大きな特色であって、これほどはっきり平和主義を明らかにした憲法は世界にもその例がない。

私たちは戦争のない、本当に平和な世界をつくりたい。このために私たちは陸海空軍などの軍備をふりすてて、全くはだか身となって平和を守ることを世界に向かって約束したのである。わが国の歴史をふりかえってみると、いままでの日本は武力によって国家の運命をのばそうという誤った道にふみ迷っていた。殊に近年は政治の実権を握っていた者たちが、この目的を達するために国民生活を犠牲にして軍備を大きくし、ついに太平洋戦争のような無謀な戦いをいどんだ。その結果は世界の平和と文化を破壊するのみであった。しかし太平洋戦争の敗戦は私たちを正しい道へ案内してくれる機会となったのである。

新憲法ですべての軍備を自らふりすてた日本は今後『もう戦争はしない』と誓うばかりではたりない。進んで芸術や科学や平和産業などによって、文化国家として世界の一等国になるように務めなければならない。それが私たち国民の持つ大きな義務であり、心からの希望である。

世界のすべての国民は平和を愛し、二度と戦争の起こらぬことを望んでいる。私たちは世界にさきがけて『戦争をしない』という大きな理想をかかげ、これを忠実に実行するとともに『戦争のない世界』をつくり上げるために、あらゆる努力を捧げよう。これこそ新日本の理想であり、私たちの誓いでなければならない。」


このように政府が先頭に立って新憲法の理念の普及に努めたのは、憲法施行後わずか3年間でした。1950年6月に始まった朝鮮戦争を契機にアメリカの強い要求による警察予備隊の発足、2年後には保安隊と改称、朝鮮戦争休戦後も続く米ソ対立の東西冷戦下で、1954年に自衛隊が発足しました。この自衛隊について政府は、「自衛隊は自衛のための必要最小限度の実力であって違憲の戦力ではない」という解釈で自衛隊合憲として来ました。その後の歴代政府は、アメリカ政府の圧力により、日米軍事同盟強化へ向けて、次々と解釈を拡大して数々の憲法9条違反の法律を制定して来ました。そして遂にアメリカが開始した大義なきイラク戦争へ追従し、戦場と化したイラクへ自衛隊を派遣するに至りました。


私が教師となって3年後の1951年1月朝鮮戦争の最中、軍国主義教育に奉仕したことを厳しく反省して、全国の教職員50万人が結集した日本教職員組合は、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを決定し、憲法9条の擁護・発展の運動に取り組みました。それから半世紀自衛隊は設置されたものの憲法9条により海外の国際紛争に派遣されたことはありませんでした。しかし、今次のイラク特措法による自衛隊の派遣先は、非戦闘地域などとごまかしていますが、まさに憲法無視の「自衛隊の戦場への派兵」であり、私も含めこのスローガンを大事にして来た者の心をひどく傷つけるものでした。


この特措法成立時に、元防衛庁教育訓練局長で現新潟県加茂市長小池清彦氏は、衆参両院議員と各大臣宛「イラク特措法案を廃案とすることを求める要望書」を提出し、その中で次のように指摘しています。

(1)イラク全土は、常にロケット弾攻撃、自爆テロ、仕掛爆弾攻撃等の危険が存在する地域であり、戦闘行為が行われている地域であります。

(2)「戦闘行為」を「国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為」と定義し、(1)に掲げる攻撃が「戦闘行為」に当たらないとするイラク特措法の考え方は詭弁であり、強弁であります。

(3)イラクは、全土において、前線も後方もありません。イラク全土がいまだ戦場なのであります。

(4)このような地域へ自衛隊を派遣することは、明確な海外派兵であり、明らかに憲法第9条に違反する行為であります。イラク特別措置法に定めるような海外派兵さえも、憲法第9条の下で許されるとするならば、憲法第9条の下でできないことは、ほとんどど何もないということになります。

(5)憲法第9条は、もともとアメリカによって押し付けられたものであることは事実でありますが、しかし、同時に憲法第9条は、終戦後今日までの58年間、日本及び日本国民が国際武力紛争に巻き込まれることを固く防止して来たのであります。

また、憲法第9条の存在によって、日本人は世界中の人々から平和愛好国民として敬愛され、今日の地位を築くことができたのであります。さきの大戦において、祖国のため、戦火に散華された英霊が望まれたことは、祖国日本が再び国際武力紛争に巻き込まれることがないようにとのことであり、日本国民が再び戦場で斃れることのないようにということであったはずであります。私達は今一度大戦中の苦い経験をかみしめ、昭和20年8月15日の原点に立ち還るべきであります。


このように、イラクへの自衛隊派遣は、わが国の広範な人々から疑問視され、反対の声が上がっています。憲法99条で憲法尊重擁護の義務を負う首相はじめ各大臣、国会議員等による憲法9条違反の行為を、ぜひ司法の場で厳正に判断していただくようお願いいたします。                                           

  以上


  2007年1月22日



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