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2006.10.01
第10回口頭弁論(原告本人尋問)参照
参照
熊本地方裁判所御中
1. 自己紹介
私は1929年生まれ現在77才の退職主婦です。3才の頃旧満州国に渡り昭和21年11月に引き揚げてきました。
昭和初期は不況で父母は国内での生活維持が困難になり王道楽土を目ざし渡満し立て直しを図ったが国外も例外ではなく好転は望めませんでした。その上日本国は日中戦争、アジア太平洋戦争へと突入、戦時体制一色となりました。戦争逐行の為衣食住のすべてが統制され、言論の自由はなく教育も常軌を逸脱したものでした。学徒動員と称し食料生産、鉄道工場、陸軍病院へ労働力不足を補うための仕事に狩り出されました。「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」物不足は精神で抑え鍛えられました。今でも忘れられない言葉です。
全国民が勝利を信じ疑うことを許されませんでした。総力を挙げた戦争でしたが敗れました。私の青春は戦争と共にあり日本国に引き揚げるまでの外地での苦労が厳しく辛いものでした。
2. なぜ裁判を起こしたか
私は戦争に対する嫌悪感を人一倍強く持っています。それは過去の体験がとても悲惨なものであったからです。戦地では多くの人が命を失いましたが残された家族(妻・子供)は銃後を守り苦しい生活を強いられ遺族として生涯過ごすことになりました。
子供は成長期を栄養失調で十分に育つことができず病魔におそわれ死に至り、なきがらを川原で焼きお骨を拾いました。外国人による強姦・殺人・略奪におびえる生活が続きました。
厳寒の土地で家もなく食べ物もない金もなければ仕事もありません。生きる為に子供でも働くことになりあらゆる仕事を見つけて親子兄弟力を合わせて日々の糧を得る努力をしました。
髪を刈り男装で過ごしたあの頃は忘れたくても脳裏から消えることはありません。やっと辿り着いた日本は優しい国ではありませんでした。私達は軍隊の人に見捨てられ又、政治の上でも救われませんでした。国のため懸命に努力協力した国民は平等に保障されるべきだと思うのです。国が戦争をしなければ死ぬ人もなく他国へ迷惑をかけることもなかったと思います。
今又、イラク戦争への加担は自国防衛の為でなくアメリカ向きの政策がもたらすものと聞く。自衛隊員や家族に再び私が味わった悲惨な経験を繰り返して欲しくありません。
イラクの子供や女性も甚大な被害を受けています。見聞するのが辛いです。平和で幸せに暮す権利はある筈です。
3. 裁判所に訴えたいこと
どうぞ私の訴えを聞いて下さい。日本の国を愛しあこがれて帰って来たのです。再三命の危機に曝されのり越えて来ました。憲法論争ではありません。イラク派兵が憲法違反かどうかこの一点について裁判官の判断を仰ぎたいのです。直接戦争被害を受けた世代の訴えです。世界中の人が不幸にならないためにも平和を守りたいと思います。
裁判官の御賢明な判断をお願いいたします。
以上
2006年10月1日