自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
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資料  2007.09.01
あゆみ第10回口頭弁論(原告本人尋問)参照
      
宮川経範陳述書参照
「小泉政権の「自己責任」を検証する!参照
意見陳述一覧 参照

原告 本多香織 



第10回口頭弁論 

2007年9月1日 熊本地裁

原告 本多香織

陳 述 書



わたしは直方市にあります日本基督教団直方教会の牧師です。1999年からこの地に暮らし働かせていただきながら、教会につながるお一人お一人と生き合おうとしてきました。香田真澄さん、香田節子さんは直方教会の信徒です。ですからイラクにて拘束・殺害された香田証生くんの事件は、わたしを含む直方教会が揺さぶられるものでもありました。

「証生の身体はイラクから帰って来たけれど、魂はまだイラクの空をさまよっています。イラクに平和が訪れるまで、帰ってこないと思います。」

2004年11月5日、香田証生くんの葬儀の中で、かれの母親である香田節子さんは、このようにことばをつむがれました。10月27日に香田証生くんがイラクで拘束されたとの報を受けてからの10日間…こころがその奥深くから振り子のように大きく揺さぶりを受ける中、香田節子さんはこのことばをつむいだのです。
 
また香田証生くんの父親である香田真澄さんは、「証生の事件が起こって、はじめて、イラクで10万人以上の人々が殺されているという事実を知らされた…」と語られました。
 
これらは“その時”の精一杯のことばであり、被害者として、その視点から現実を深く見つめてゆこうとするものだった、とわたしはその傍らにいながら感じさせられました。
 
 
2004年10月27日からの10日間は、その後に続くこれまでの3年近くの日々を問い続けています。わたしは今も、香田さんご家族の暮らすその傍らで、この事件が発し続けているその問いに包まれながら生きています。迫ってくる出来事の深さと重たさは、時を重ねる毎に大きく大きくふくらんでいきます。そのことは、わたし以上に、香田さんご家族お一人お一人が感じ続けておられることだと思います。

2004年10月27日の午前9時過ぎ、わたしは香田真澄さんから事件の連絡を受けました。ちょうど出張で東京のホテルでの会議にいました。連絡を受け、非常な戸惑いを抱えながら、共にいた人たちと申し入れのため国会議員会館へと向かいました。小泉元首相に自衛隊の撤退を説得してくれそうな議員を探し回り、声を届けようとしました。しかし、小泉元首相は「テロには屈しない。自衛隊は撤退しない」との姿勢を表しました。わたしはこの発言に身体が震え、見捨てられた思いを持たされました。この一言、この一言が、まるでロウソクの火を吹き消すように、いのちを踏みにじり人権を無きものにするのだ、と感じました。この小泉元首相のことばと姿勢は、決定的に香田さん家族を闇に突き落とすものだったと、今なお怒りがやみません。
 
翌日、早朝に東京を出発し直方市の香田さん宅へ向かいました。まさに混乱のただ中にあり、警察とマスコミに囲まれ、電話が絶えず鳴り響いていました。内容の多くは、誹謗中傷です。混乱のただ中にある人々を、さらに追いつめていくことばの暴力に、香田さんご家族は憔悴しつつ、しかし今できることを、と知恵を捻り合い再び東京へ出かけました。
 
香田節子さん、香田真生さん(証生くんの兄)は、アルジャジーラなどの報道を通じて、拘束している人たちに直に語りかけることを選び、わたしはそこに付き添いました。マスコミに押しつぶされそうになりながらの道中でした。しかし多くの誹謗中傷が浴びせられる最中、その一方で、本当に真摯に共に考え行動してくださる方々がおられました。NGOなどでイラクに平和を実現するために活動し続けておられる方々です。かれらに支えられつつ、直方に戻りました。その後は、近隣・地域の牧師たちと共に、香田さん宅で過ごしました。雨戸で閉めきったその外には、大勢のマスコミが常に待機し、雨戸の無い窓に人影が映るとフラッシュが光る…、家の中では誹謗中傷の電話が鳴る…、そんな日々でした。人間とは、こんなに残酷で、こんなに優しいのだということを、この現実の中で実感させられました。
 
10月31日早朝、香田証生くんが殺害され発見されたとの連絡を受けました。殺され方もなにもかも、想像を絶することでした。ただただ、深い悲しみに突き落とされ、香田さんご家族のその悲しみの深さは、その傍らにいてもわたしの想像をはるかに超えるものでした。
 
11月3日、香田証生くんの身体が福岡空港に帰ってきました。空港で、谷川元外務副大臣と面会し、「政府は力をつくした…」旨を聞きました。未だに意味が分かりません。信頼できません。具体的なことが示されなかったからです。その後、直方警察署で香田節子さんが証生くんの遺体を確認しました。この福岡空港への往復は、本当につらいものでした。普段通っている道、その風景がこの日を境に変わってゆくようでした。
 
11月4日、夕方から市内善光会館にて前夜式を、5日正午より葬儀を行いました。わたしは5日の葬式を司りながらも、そのすぐ前に座っている政府関係者に、自衛隊の派兵について問いただしたい思いにかられたことも、正直なところです。

 
葬儀が終わったこの日から、深い悲しみを抱えながらの新たな旅が始まりました。雨戸が開かれ、マスコミが去りました。数えきれない程の手紙が香田さん宅に届き、多くの方々が訪ねてこられました。その時、その時をいっしょに過ごさせていただきながら、イラクで起こり続けている現実を伝えられ、知らされ、同時に迫ってくる証生くんのいのちに出会い始めました。
 
香田証生くんの事件を通して突きつけられたこと、それは、日本が侵略戦争に荷担しているのだという現実です。日本という国は、「戦争へと歩み始めている」のではなく、実際に荷担し、戦争の加害国として在るのだという現実です。わたしは、まさに「戦時」に生きていたのだ…ということを、リアリティの無いまま見過ごしていたのだと痛感させられました。証生くんの事件を取り巻く状況は、まさに「戦時」です。香田さんご家族は、被害という深い底知れない悲しみと、侵略戦争の加害国に生きているという苦しみに同時に包みこまれ、その狭間に生きながら、苦悩し続けているのだとわたしは感じています。それはわたし自身の苦悩とは少し違っているのかもしれません。わたしにとっては、証生くんのいのちも、イラクにある多くのいのちも、奪われ続けているのは、わたしの無力さとつながっているからではないのか、と痛感させられています。ですから、この訴訟に原告として加わりました。日本政府の違憲行為、国際法を無視する加害行為を、結果として許してしまってはならないと考えるからです。
 
また、香田証生くんの事件を通して、「戦時」は作られてゆくのだということも知りました。「なぜ、あんなところへ」と人々は批判し、“自己責任”ということばが浴びせられました。「あんなところへ」と語られるその場に、イラクの人々の暮らしと日常があるのだ、と思います。その暮らし・日常がどれだけの危険に侵されているのか、そこに生きるいのちは「あんなところ」に生かされていていいのか、という問いがなぜ生じないのでしょうか。「あんなところへ」と語られる、その場をつくり出している側の“責任”の方が、深く問われるべきだと思います。その責任は、今ここに生きているわたしにもあるのです。「なぜ、あんなところへ」という多くの批判が、そこで発せられる「なぜ?」が、「なぜ自衛隊を撤退しないのか」という問いかけにつながらなかったのか、今後もちゃんと考え続けたいと思います。わたしは、そこには人権の軽視・国益優先の論理が響いていると考えます。人権の軽視・国益優先、それはまさに戦時体制です。
 
日本政府が派兵した自衛隊は、軍隊として侵略戦争をし続けているのだと思います。イラクの民衆の虐殺に荷担してしまっているこの現実は、憲法違反どころの話ではありません。その自衛隊の加害行為、日本政府の違憲行為が正当化されるために、香田証生くんの事件が無化され、かれの人権が蹂躙されたのだ、と思わずにはおれません。
 
世間では、かれの旅の目的の有無についてあれこれと言われていましたが、わたしは目的をはっきりと周りに示すことができなければ旅をしてはならないとは、決して思いません。目的を持って行動しなければ、人権が保障されないのであれば、それは人権ではないのではないでしょうか。“自己責任”は、殺されることの理由には決してならないのです。証生くんが殺された大きな理由は、日本が自衛隊をイラクに派兵していること、侵略戦争に荷担していること、なのだと思います。責任を問われなければならないのは、日本政府であり、小泉元首相であり、憲法で保障されている人権の尊重を放棄した責任は重大なのではないでしょうか。人権はたとえ死んでも無くならない、とわたしは信じています。

 
戦争は人を殺すことです。そして、殺されることであり、殺させることです。そうなのだと思いつつも、このことばのリアルさに自分が近づくことが出来ているかは、常に問われることです。香田証生くんは、アンマンで出会った方に、「実際に行って見ないと、戦争を語れませんよね」と話したと聞きました。かれの意志が何に、どこに深く根付いているのかは、わたしには分かりませんが、かれが「近づこうとしたこと」にこころを傾けてゆきたいと思わされています。イラクで何が起こっているか、その悲惨さ残虐さを伝える写真展が、ここ直方でも数回開かれました。その写真を見つめつつ、劣化ウラン弾の被害にあるその存在を見つめつつ、しかしわたしは、そこにある呼吸を近くに感じたいと思ったことは、なかったのではないかと問われます。ところが香田証生くんは、劣化ウラン弾によるこどもたちの被害写真を14枚持っていました。それをクリフホテル従業員のサーメルさんにことづけたとのことです。この写真は多くの観光客にみられなければならない、と言い残したそうです。写真に映るその存在の、呼吸を感じるところまで近づこうとした、この証生くんの意志に、わたしは今も深く問われる思いです。

 
わたしは自衛隊の即時撤退を求めます。自衛隊のイラク派兵は、明らかに違憲行為として裁かれるべきだと考えます。この裁判は、原告として集まった人々のみのものではなく、イラクにおいていのちを引き裂かれている声なき声が響き合うものであることを信じたいと思います。この裁判から引き出される判決が、日本国憲法の前文及び9条に、いのちの息吹を吹き込むものであるように、こころの奥深くから祈ります。そして、戦争は克服できるのだ、という信頼感をつむぐ第一歩となることを願います。
 
香田証生くんが人権を蹂躙され殺害された深い悲しみは、この後も残り続けると思います。しかし同時に、自衛隊がイラクで加害行為を継続していることは、悲しみを奪うほどの苦しみなのです。冒頭の香田節子さんのことばにあるように、香田証生くんの身体も魂もいっしょに包み込んで深く悲しむ権利をも、自衛隊のイラク派兵は奪い続けているのです。被害と加害の狭間で引き裂かれた、この被害者の苦悩するこころを、わたしはこの数年で感じざるをえませんでした。そして、この苦悩は、質は違っていてもわたし自身の苦悩でもあるのだ、ということを訴えたいと思います。
 
こころの在る判決を期待しています。

                                   以 上
 



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