自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本
ホームあゆみ会員募集リンク問い合わせ


資料  2007.06.18
あゆみ第9回口頭弁論参照
      証言ダイジェストがあります(ニュースレター13号)

意見陳述一覧 参照

小林武先生の証言(証人調書)

(愛知大学法科大学院教授)


◆1〜24 加藤修弁護士が質問

   エホバの証人、神戸高専事件
   憲法9条が生まれた歴史的経過
   日本国憲法が平和的生存権を保障した意義
   平和的生存権の裁判規範性
   平和的生存権の権利性
   平和的生存権の定義
   平和的生存権の侵害
   情報保全隊


◆25〜41 河口大輔弁護士が質問
 
   平和的生存権は一人一人が有する具体的な人権
   平和的生存権を根拠とする訴訟
   差し止め請求の要件   
   名古屋の3月23日の判決
   イラク派兵:被侵害利益の人権の重要性とその侵害の程度
   イラクの治安状況
   バグダッドの治安状況(黒塗り開示文書)
   コンバットゾーン(米軍HP)
   真正面からの違憲な国家行為

     
◆42〜55 板井俊介弁護士が質問
   司法上の権利としての人格権
   個別の人権侵害(原告の陳述書による)
   甲府訴訟の判決
   判決理由中で憲法判断を示すことについて
   歴史上最大の違憲行為
   裁判所が果たすべき役割


第9回口頭弁論
2007年6月18日 熊本地裁

証人:小林武




原告ら代理人 (加藤)



甲第76号証を示す
 1
これは証人の経歴ということで書いてありますけれども、ここに書かれたことは先生が書かれたものに間違いありませんか。
はい、間違いございません。
 2
内容的にも間違いないですね。
間違いありません。

甲第77号証を示す
 3
ここに証人の主要著作目録というのがありますけれども、これも先生が書かれたもので間違いありませんか。
間違いありません。
 4
先生がこれまで裁判所において憲法学者として意見書、あるいは鑑定意見書などを出されたことがございますか。
ございます。
 5
それは何通ぐらいございますか。
十数通,20通近いんではないのかというふうに思ってますが、今改めて調べたということではないんですけども、そのような数です。
 6
先生が出されたその意見書の中で、これまで先生の中で最も印象に残っているものは何でしょうか。
いわゆるエホバの証人、神戸高専事件というのがございますけれども、かなりよく知られた事件でしたけれど、エホバの証人の学生がその信仰のゆえに剣道実技をすることができないという剣道実技の拒否訴訟でございます。そこでその学校は剣道実技を必修にしておりましたので、それが受けられない当該生徒は1年目では原級留め置き、2年目においてはその学則に従って退学という、そういうふうな措置に遭ったわげですけれども、この是非が問われた事件で、最高裁判所に原告側からの要請に応じて意見書、あるいは鑑定意見書と申しましたか、を出しました。これはその趣旨が最高裁判決に採用されたと申しますか、あるいは客観的には最高裁判所が同じ趣旨の判断を出されまして、言わば快哉を叫んだような、そういう記憶がございます。もちろんそれはきっと私の意見書のゆえということよりも、私の意見書を含む憲法学の通説を最高裁判所が理解されたんだと、そんなふうに思っております。

甲第75号証を示す
 7
「平和的生存権の弁証」という著作を示します。これは先生が書かれたものですね。
そうです。
 8
先生がこれまで平和的生存権について書かれてきたものなどをまとめられたものですね。
そうです。
 9
次にこれから原告らが被侵害利益としで主張している平和的生存権について先生のお考えを伺います。まず、憲法9条が生まれた歴史的経過についてお述べください。
憲法9条はこれは言うまでもないことですけれども、第1項で国権の発動としての戦争、それから武力による威嚇及び武力の行使を国際紛争を解決する手段としてぱ永久に放棄するということを定めて、第2項ではそれを受けた形で陸海空軍その他の戦力の不保持、そして国の交戦権の否認ということを明確に定めております。ほかの憲法には、もちろんほかの憲法も、他国ですね、平和主義という点では当然共通しておりますが、この日本国憲法のように一切の戦争の放棄、戦力の不保持まで踏み切ったのは日本国憲法だけである、ほとんど、だけであるというふうに言えるだろうと思うんです。そういうものが我が国 で成立しましたにつきましては、一般的には戦争を違法化する、戦争を違法なものとみなすという、そういう国際的な大きな流れがあって、取り分けこの世紀の二つの戦争の悲惨な結果を受けてそういう流れが生じております。古くは1791年、フランスの憲法が侵略戦争の放棄ということを言っておりますが、だだそれは侵略戦争の放棄ということで、聖戦論に立ったもので、本格的に戦争違法化というものが生じたのばやはり今申したように20世紀の二つの戦争ということが契機になっていると思います。取り分けて第2次世界大戦というものはその戦争の原因がいわゆるファシズムであったということもあいまって、世界の国々が平和というものに一層注目をし、平和主義を採用するということは各国憲法の共通項になったと思います。ドイツしかりイタリアしかり、またフランスしかり、お隣の韓国憲法もまた同様であります。ただ、繰り返して申しますけれども、日本の憲法が取り分けて戦争とそして戦力の絶対的な放棄、例外を許さない放棄、ここまで踏み切ったのはやはり日本という国の受けた戦争ということについての、加害国であったと同時に民衆が大きな被害を受けたという、その惨禍の深さということが日本の憲法をそこへ踏み切らせたというふうに考えております。
10
1945年に成立した国連憲章が国際紛争の平和的手段による解決を原則として、武力による威嚇または武力行使を慎む原則を定めたことと我'が国の今の憲法とは関連がありますか。
国連憲章は1945年の成立で、日本国憲法は言うまでもなく47年でありますが、したがって日本国憲法は国連憲章の定めや、また国連憲章が代表する世界平和の流れというものを受けて作られておりますので、その関係は深い、決定的に深いというふうに思います。ただ、この両者の関係を考えるときに、やはり今も弁護人がお触れになりました国連憲章は国際紛争の平和的解決というものを原則にする、そして大原則にする、つまりそれを可及的に追求していくという立場に立っている、こういうところである、同時にそのような平和的解決がなされないときには軍事的な解決ということをなお想定していて、そのことを発動する制度を作っています。日本の場合にはそうした軍事的解決という発想を何ら持たない憲法だという点、繰り返してでありますけれども、注目をしておきたいと思います。
11
次に憲法の前文に平和的生存権が明記されましたけれども,その歴史的な経過はどのようなものでしょうか。
平和的生存権は、これも確認でございますけれども、憲法前文の第2段の最後の文章として、全世界の国民は等しく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有ずることを確認するという、こうした権利規定でございますけれども、こうしたこの平和のうちに生存するということを人権と考えるそうした発想はやはり20世紀の二つの戦争、二つの大戦ですね、二つの世界戦争、取り分けて第2次世界戦争ということが契機になってると思います。第2次世界大戦のさなか、当時のアメリカ大統領ルーズベルトがいわゆる四つの自由ということを発表いたしましたけれども、この四つの自由ということの中に恐怖から免れる自由、欠乏から免れる自由ということをうたっておりますし、なおそれは、それと平和ということを結びつけておりませんけれども、そのようにうたっております。その後同じ年の大西洋憲章、その中ではこの恐怖と欠乏から免れて生きる願いというものをこの憲章の中で表明しております。願い、願望でございます。こうした流れを受けて、そして取り分けこの大西洋憲章の言う世界の人々が恐怖及び欠乏から免れる、そういう自由が確保できるのはこの平和の中でだというこの願いの表明、この願いが日本国憲法の中では権利という形で、つまり平和のうちに生存する願いではなく、権利という形で言わば規範化されているというふうに思います。直接の文言上の淵源はその大西洋憲章じやないかという気がいたしますけれども。
12
その後、平和的生存権については世界でどのようになってきたのか、その点はどうでしょうか。
平和のうちに生きるということが人々の、日本の憲法の言い方で言えばすべての人、世界におけるすべての人、こういうオール・ピープル・イン・ザ・ワールドという、世界におけるすべての人、日本国憲法の言い方では全世界の国民という言い方ですけれども、この世界のすべての人類の権利だという考え方は国際文書の中では言わば今日では確立された思想じやないかというふうに思います。大体1970年以降の、取り分け70年代後半以降の国際諸文書、国連の文書も含めまして、でばそういう考え方が、つまり平和のうちに生存する権利という考え方がうたわれていると言えると思います。ちょっと今宙で言っておりますから何年のどれということを申し上げることはできませんですけれども、70年代後半の例えばへルシンキ宣言などというのはその行使に当たると言えると思います。ただ、ナショナルなレベルといいますか、つまり各国の憲法の中ではなお平和のうちに生存する権利という、こういう規範規定は日本国憲法を除いてはないんじやないかというふうに思います。
13
先生が今お話になったのはこの甲第75号証の平和的生存権の弁証の中の26ページ以降に書かれておる、このあたりでございましょうか。
そうですね。さっきの御質問から今の御質問まで大体このところで,そうです。70年代後半から今日にかけての経過というのはそこに示しました。
14
平和的生存権のそもそもの根拠は先生はどこに求められますか。
私は日本国憲法の前文それ自体、つまり先ほどの,短く言えば恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利という、この前文の文言に根拠を求めております。
15
日本国憲法が平和的生存権を保障した意義というのはどこにありますか。
これは大変大きいと私は思います。日本国憲法は憲法全体として平和主義というものを基本原理としている、つまり世界の日本国憲法を評する、その評し方によれば正に平和憲法というところに日本国憲法の真骨頂があるだろうというふうに思うのです。そのことは何よりも9条で、これは先ほどから敷演しているとおりで繰り返しませんですけれども、要するに、戦争しない、戦力を持たないという点で徹底しております。その9条というのはそのように公権力に戦争をさせない、そしてその公権力が戦力を持つことを認めないという、言わば制度規定、客観的な制度規定だと思います、9条。で、日本国憲法はそれと一体のものとして人権規定、つまり主観的権利規定ですね、そういうものを平和的生存権という形で置いている、ここに大きな意義があるわけでありまして、そういう規範構造から言いますと、9条の客観的制度的規範についての公権力の侵害行為があった場合にはそれはとりもなおさず主観的な人権規定としての平和的生存権侵害になるという、こういうふうな構造になると思います。で、またその平和的生存権は大変包括的で規定的な権利ですから、第3章で格別に具体化されている権利、10条以下の40条までの第9章の権利、これと結びついて、それぞれの人権の中に言わば平和的生存権の内容を充填していくという役割を果たす、そういう意味を持っているんではないか、つまり例えば一つだけ例を挙げますと、18条の奴隷的拘束及び苦役からの自由という、この条項は平和的生存権と結びつくとき徴兵制の禁止という規範効果を導ぎ出すという、そういう形になろうと思います。したがって意義という、そういう御質問でございますけれども、要するに、平和的生存権と9条、戦争の放棄の結びつき、そして第3章、人権、各別の人権、これとの結びつぎという形で一つの体系的な規範構造ができているのではないのか、そういうふうに理解しております。
16
次に平和的生存権の裁判規範性についてお尋ねします。その前提として憲法前文の法的性格はどのようにお考えでしょうか。
憲法前文、これは第1条の前に置かれている文章で、どの国の憲法も大体前文を持っております。その前文が日本国憲法の場合には一つにはその位置において、つまり日本国憲法というこの憲法のタイトルの後に置かれているという、その位置、やや形式的な根拠でありますけど、その位置のうえから、もう一つは内容上、これはもっと後に検討する必要があろうかと思いますけれども、内容が規範としての性格を欠いていないという、その点において憲法の前文がまずは憲法の一部であるということは明らかであります。したがいまして、憲法前文の改正も96条によらなければならない、つまり憲法典の改正手続としての96条は当然前文をも対象にするという、そういう意味で憲法の一部であります。憲法典の一部であります。そしてそうでありますから、少なくとも本文の解釈を導く。そういう解釈基準、解釈規範であることは疑いのないところですし、また政治は、公権力の相当者ですね、はこの憲法前文を、これを自らの政治の方針策定の基準にしていかなければならない等の一般的な法的意味を持っているということは疑いがない、正に法的規範であるといぅことは明らかであります。
17
他の国の憲法前文の法権利性についても大体同じことが言えるんでしょうか。
外国の憲法について私すべて知ってるわけではありませんけれども、確実に言えますことはやはり各国において違うというふうに言えると思うんです。若干の我々になじみ深い例を拾いますと、アメリカ合衆国憲法、この前文は非常に短いです。制定の経過について触れたぐらいのものでございます。御承知のところだと思いますけど。したがいまして、アメリカでは憲法前文の法的効力ですとか裁判規範性ですとかという議論それ自体がないと思います。ドイツ、ドイツの場合には1871年にビスマルク憲法ができておりますけれども、この前文も大変短いものでありまして、これについても当時のドイツの議論ではその法的効力、あるいは裁判規範性という議論はなかったと思います。ドイツの場合、1919年にワイマール憲法ができておりますが、この前文は長さとしてはその前のものとさほど変わりはないわげですけれども、ただドイツ国民が憲法を決定したという、そういうところがこの前文で注目されまして、いわゆる憲法制定権力の議論とあいまって当時の憲法学者はこの前文には大きな法的意味合いがあると、つまり制定権力の根拠を定めたんだというふうに理解をしているわけですね。ドイツのもう一つ戦後の現行憲法、基本法ですけれども、これは各国家機関を制限する、拘束するという、そういうふうな理解があって、そこでは明らかに具体的な法的効力を持つものだという理解がなされているわけですね。最後にフランスを取り上げておきますげれども、フランスの場合には1946年に第4共和制憲法ができております、敗戦直後に。そこでは1789年のあの有名なフランス人権宣言、これが前文の中で確認されていて、それがつまり1789年の人権宣言が現行規範性を持つというわけでありますから、そのことを確認した前文というのは当然憲法の一部として裁判規範性を持つという、そういう理解であります。現行のものは第5共和制、1958年の第5共和制憲法、ここではその先ほどの第4共和制憲法の前文と、そして第4共和制憲法が引いていた1789年の人権宣言と、さらにこれは一般的に定立した法規範、法原理というもの、これらを前文で確認するという形で、一層広い範囲で法的な性格、裁判規範性を持っているというふうに理解できます。だから一律に世界の憲怯の共通した一律の性格ということは導き出すことができないと思いますし、したがって日本国憲法のそのテ一マについての理解もやはり日本国憲法それ自体を他の国の憲法を比較しつつでありますけれど、それ自体を検討して結論を出すべきだろうというふうに思います。
18
日本の平和的生存権の裁判規範性についてはどのようにお考えでしょうか。
憲法前文が法規範性を持つ、法的効力を持つということは先ほど申し上げたとおりですけれども、条文とのつながりで言えば、つまり前文もまたその改正は96条によらなければならないと、そういうことを先ほど確認したとおりですね。それに引き換え、あるいはそれから進んでといいますか、前文が裁判規範としての性格を持つか、つまり憲法81条、つまり違憲審査の基準を示しているこの81条でいう憲法の中に憲法前文も入るかということになればかなり微妙で、個別的検討を要する問題が出てくるんじゃないかと思います。つまり日本国憲法前文全体が、それ自体が裁判規範であるということは言い難いのではないか。その中で取り分けて具体的な性格を持ち、また先ほどもちょっと触れましたけれども、本文の他の規範、ないしは規範構造と結びついている、そうした前文の中の規範部分が、これが裁判規範を持つと言うことができるだろうと思います。今この訴訟で問題になっております平和的生存権というのはそういうもの、つまり積極的に裁判規範性を認めることができる前文部分、前文の中の部分じゃないかというふうに思ってます。
19
最高裁判所は憲法の前文の裁判規範性についてばどのような立場と理解されていますか。
最高裁判所は、典型的な判決を拾いますと、砂川事件の判決、1959年の判決ですけれども、大法廷判決ですけども、ここでは非常に正確に思い出すことはできませんですけれど、ほぼ間違いなくお伝えできるのは、ここで争われたのは駐留アメリカ軍の合憲性でありました。そのアメリカ軍の駐留というのは最高裁の言い方によれば、前文、それから9条、そしてそれ以外にも条文が挙げられていたかと思いますが、そうした前文や9条の趣旨に合致しこそすれ、それに反ずるものではないという、そういう趣旨の判断を、判示をしております。それについては実は見解が分かれる、言わば最高裁判所判決の解釈が分かれておりまして、本件の国側の見解はちょっと私分からないんですけれども、これまでの様々な事件における国側のこの判決についての引用の仕方はこれは9条ないし9条以下の具体的な条文、そこに裁判規範性を求めて、前文はそれの解釈基準として用いているんだという、そういう解釈をしておられます。国側はしておられると。私はちょっと違いまして、あるいは憲法学説の多くはそうは考えておりませんで、前文、9条、こう並べてる以上、むしろ、むしろですね、その裁判規範性というものについて肯定をしているのではないか。もちろん結論はそれに駐留米軍は反しないという、そういう結論でありますから、例えばその判決における第1審、東京地方裁判所の示した結論とは逆でありますけれども、でも前文の裁判規範性それ自体については今私が申しだような読み方が可能であるし、妥当であろうというふうに思っております。それからしばしば引かれますのは、百里基地訴訟の最高裁判決でありますけれども、ここで平和的生存権には具体性なしという、そういう、したがって裁判規範性なしという、そういう論理を立てるときに、最高裁判所は平和という概念、この平和という概念は大儀的であって、したがって具体性に欠けると、具体性に欠ける平和という概念を用いた平和的生存権、これはしたがって裁判規範性を持たないという論理を展開しておられる、最高裁ですね。ただ、ここでは、ここではというのは憲法訴訟で議論される、あるいは憲法の議論の中で考える平和というのは、抽象的、一般的な平和の概念ではなくて日本国憲法における平和でありますから、そしてそれは先ほどから幾度も申しているような憲法9条によって明確に定義された平和でありますので、したがってそこで使う最高裁判所の論理というものも平和的生存権に裁判規範性なしという、そういう論拠にはならないのではないのかというふうに考えております。それ以外に明確に、例えば本件のような明確な公権力行使について、平和的生存権の裁判規範性が争われた、そういう場面での最高裁判決はないのではないのかという気がいたします。なお参考に百里基地訴訟は自衛隊基地の売買に関する、そういう訴訟ですので、本件とはかなり性格の違ったところでの平和的生存権議論ではなかったかというふうに思っております。
20
平和的生存権の権利性に関して、今言われた平和の概念の抽象性から裁判規範性を否定する考え方があるようですけれども、これについては今先生が話された内容で具体性があると、日本国憲法における平和というのは具体性があるんだということになりますか。
はい。具体性、特定性があるというふうに思います。先ほど申しました9条、これはもう繰り返しませんですけれども、前文でも平和という言葉は、前文でもと申しますよりも、前文は言わば平和の宣言と言えるほど、この戦争というものについてのこれを行わない、そういう態度、それに基づいて平和を消極的ではなくて積極的に建設していく、つまり世界平和を実現していくための日本国民の努力ということをうたっている、そういう前文であります。そういう中で例えば政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意しというふうな、そういう文言に接するときに、日本国憲法は平和という ものを政府の行為によって戦争というものを再び起こさせないという、こうした内容においてとらえていることは明らかであります。あるいはまた前文の第2段の最初の言葉だったと思いますけれども、日本国民は恒久の平和を念願しと、この恒久の平和も一時的な外交上のそうした平和、つまり政策上平和を掲げる、その平和ではなくて、世界平和を恒久的なものとして確立をしようとするものでありますので、そうした9条や前文全体の規範から見て日本国憲法にいう平和の概念というのは具体的であり、かつ特定的なものだというふうに思います。
21
平和的生存権を定義するとしたら先生はどのように定義されますか。
平和的生存権は平和のうちに生存する権利という、そういう憲法に忠実に今考えなげればならないと思ってるわけですけれども、平和のうちに生存する権利ですよね。そしてその平和が先ほど申し上げたように9条によっで定義づけられるということである以上、したがって平和のうちに生存する権利というのは公権力が9条違反をしない日本において生存する権利ということになるだろうと思うのです。その中身はと言えば、9条はまずは戦争、武力による威嚇、武力の放棄、これを定めておりますから、そして第2項では戦力を持たないことを定めておりますから、したがって定義は少し長くなりますけれども、戦争をせず、武力による威嚇をせず、武力行使をせず、そして戦力を保有しない日本に生存ずる権利といjことになるだろうと思います。ただ、この事件の原告は戦争や武力行使をしない日本に生存する権利という、こういう定義を与えておられると思います。少しそのことを考えますに、私の少々、この規範というものにこだわった定義からいたしますと、やや本件原告の定義は短いですけれども、内容上これはしっかりとその中心点を把握しだ定義だというふうに思うのです。そこでは戦力を持たない日本という、この戦力を持たないという部分が抜けてお りますけれども、自衛隊がそれに当たるかどうかという、あの長い期間続けられている議論を脇に置くとして、その自衛隊の活動ということを今問題にしているわげでありますから、海外への派遣を問題にしているわけですから、やはり中心は戦争や武力行使ということになってまいりまして、戦争や武ガ行使をしない日本に生存する権利という、そういう定義の仕方は大変今日妥当なものじゃないのかというふうに、私はそれに同意する次第であります。
22
平和的生存権が侵害されたという、それはどのような場合が侵害という結果になるんでしょうか。
平和的生存権についての私のような定義からいたしますと、9条違反の公権力行使がなされたとき、そのとき国民一般の平和的生存権は侵害されたということになろうと思います。今私国民一般というふうに、そういう言葉を使いましたのは、訴訟、あるいは今日の訴訟制度ということを考えまずと、もちろん論理はそれで終わらせてはいけなくて、それから先、どういう形でこれが裁判になじむのかということを深く究明していかなければならないという、そういうことを留保しております。
23
現在、我が国の状況、言ってみれば原告らの置かれている状況から言って平和的生存権が侵害されている状況であるということが言えますか。
結論としてそのように言わなければならないのではないかと思います。なぜならば今日この問題、この問題と申しますのは憲法第9条や平和的生存権を巡る問題点たくさんありますけれども、その中でイラクヘの自衛隊派遣ということに絞って考えましても、やはり9条とは正面から相入れないのではないのかというふうに思います。単なる9条違反だということには既にとどまらないものじゃないかという気が私はいたします。で、それは自衛隊法にも反してるんではないか、自衛隊法はその理念において、 また立法目的において専守防衛であります。その専守防衛の目的によって設定されたはずの自衛隊が何ゆえに海外への派遣、しかもこの場合には戦場である外国へ武装して派遣されるということを可能とするのか、自衛隊法の立場から見ても甚だ理解しがたいということになります。これ、私ではなく、防衛庁の政務次官をなさっていた、そして郵政大臣を務められた箕輪登さん、それから防衛庁の官房長をなさっていた竹岡勝美さん、あるいは防衛庁の教育部長といいますか、具体的な官職は私正確に言えてないと思いますけれども、自衛隊の教育に関する大きな責任を持っていた方、小池清彦さん、現在市長をなさってます。こういう方々のお3人が共著で次のように、その共著のタイトルにされたことは非常に象徴的です。それは 「我自衛隊を愛す、ゆえに9条を守る」というタイトルであります。つまり今日の自衛隊のイラク派遣は自衛隊法違反なんですね。自衛隊法に立脚をし、自衛隊を愛して政治をなさってきた、あるいは行政の仕事をなさってきた方々が、そうであるがゆえに、つまりその理念に忠実であるがゆえに今日の自衛隊イラク派遣は許せないと、箕輪登さんは自らお一人の原告になって:北海道でこの熊本と同種の訴訟を起こしておられ、しかし亡くなられました、御承知のことだと思いますけど。私はそういうものじゃないのかというふうに思っておりますし、もう一つ付け加えて、今回の、そして今日まで続いているイラク派遣はイラク特措法それ自体への違反だというふうに思います。したがって9条違反、9条は平和的生存権違反を惹起いたしますが、とともに自衛隊法違反、そしてイラク特措法違反という、誠に法治主義の体系からは説明し難い国家行為が今日なお続けられているということを指摘をしておきたいと思う次第です。

甲第79号証の1ないし8を示す
24
今年6月7日の毎日新聞の報道によれば、自衛隊が全国で市民を監視して、ここ熊本でもこの訴訟の原告41番の荒木正信さんが事務局長を務める「戦争を許さない県民連絡会」などの団体が監視の対象とされておりますけれども、これをどのように先生は考えられますか。
私も市民の一人、あるいは憲法研究者の一人としてこの報道を慄然とする思いで受け止めました。本当に、やや感覚的な言い方をいたしますと。背筋が寒くなりました。なぜか。自衛隊の一つの機関、一つの部隊が、つまり情報保全隊というものが自衛隊の中の警察活動だけではなくて一般市民に対して瞥察活動を行っている、情報を日常的、系統的に収集をし、そしてそれを分類し、価値づけをして、この価値づけの中には反自衛隊活動という分類もあります。こうした分類をして、私たち市民の生活というものに自衛隊が常に目を光らせているという、この状態への慄然とした思いであります。これは戦前の憲兵、あるいは憲兵隊というこの制度、これ明治時代に作られた、よく御承知の制度でありますけれども、これは本来旧帝国陸海軍の内部の警察の仕事を行うという、そういうものとして作られたわけでありますけれども、それは直ちに民衆の様々な活動を監視をし、それを抑えていく、そういう役割を果たしますし、取り分けて1930年代以降の日本の戦時下においては具体的な市民生活、例えば戦争に対する流言飛語に耳を澄ませて、そしてそういう事柄をこれを取り出すというような、そうした活動をいたしますから、この憲兵というのは誠に戦前日本の市民から恐れられた存在であります。本質的にこれと同じ活動なのではないのか。こうしたことが今日あり得るのかという気がいたしました。もう少し私ここで思ったことですけども、法律家の一人として、この法的根拠を尋ねてみようと思ったんですね。自衛隊法を繰ってみますと、自衛隊法の中には自衛隊の行う治安出動の条項があって、ちょっ と何条だったのか、今私条文言えませんけども、治安出動下令前の情報収集活動というものが自衛隊法の中にあります。しかしそれはこれに該当しないわけでずね。治安出動下令前の情報収集活動では決してありませんです。で、施行令、自衛隊法施行令ですけども、この中にもありません。つまり国家の機関が権限行使をする、その権限行使を許す規範なしに、根拠なしに、規範の根拠なしに自衛隊は違法な権限の行使をしている。もちろん訓令とか、あるいは防衛庁長官、今では防衛大臣でしょうか、の立つ性格、その性質は通達だと思いますが、そういうものの中にはこれがございますけれども、しかしながらそのことでもってこのような市民の自由を制限する、そうした活動をなせようはずがない。法治国家においてそうしたものを根拠としようはずがないと思います。そしてそのような違法行為によって市民の被る権利侵害は具体的にはプライバシーを侵害されますし、また表現の自由、政治的活動に対する大きな制約を受けます。のみならず、この自衛隊のこうした行為は私たち市民の平和的生存権への侵害であります。平和的生存権は先ほど申しましたような定義でありますけれども、要するに、私たちが軍事ということから怯えることなく、穏やかに生活するということを基本的内容にしているというふうに思うのです。そういう中でこういう行為が行われるということはこれは平和的生存権違反であります。平和的生存権を侵害しております。そして国会での討論を少し注意深く聞いてたんですけれども、今はもう防衛大臣ということになっている久間大臣の答弁によれば、イラク派遣をしている自衛隊員の家族の皆さんの安全を守るためにこうした活動をしているんだという、そういう答弁が新聞の報道でございます。したがってこの問題は本件、イラク派兵と結びついてるわけですね。こういう状況の中で自衛隊の違法な、私は本当に違法だと思いますけれど、認め られている権限を超えてはならない国家権力であろうはず、それが超えてしまっている、そういうものとして深刻に私たち受け止めなければならないというふうに思っております。

このページの上に戻る



原告ら代理人 (河口)


25
最初に、先ほど先生は相代理人からの質問に対して平和的生存権には裁判規範性があるということでおっしゃいましたのでこの点について具体的にお伺いいたします。まず、平和的生存権の性質をもう少しお伺いしたいんですが、平和的生存権というのは一人一人が有する具体的な人権ということで理解していいんでしょうか。
結論としてそうだと思います。憲法の、すぐに憲法の規範、そこにかえっている、つまりそこに忠実でありたいと思ってるわけですけども、全世界の国民というのが平和的生存権の共有主体ですよね。そういう書き方をしでいるわけですけれども、憲法は、もちろん日本の憲法もナショナルな一国の憲法でありますから、全世界のというふうにしていても、直接には日本国民ということにそこではなろうと思いますし、またそこで言う国民というのは国籍を持った日本国民ということにとどまらずに日本社会に住んでいる在日外国人も含めた日本社会の人という、そういう主体概念だろうと思います。そして平和を求めるということは全体が、つまり国民すべてが持っている課題ないし目標でありますから、集団でという、そういうとらえ方が平和的生存権の場合には欠かせないと思いますが、しかしやはり権利の主体という、その法理論からすれば個々の国民、先ほど言った広い意味での国民ですけど、国民ということになろうと思いますし、この訴訟におきましても、原告団ということになっておりますが、権利主体で言えばそれぞれの、原告団を構成しているそれぞれの原告各人の権利ということになるんじゃないかと思います。
26
先生は平和的生存権は個人個人が有する具体的な人権であって、かつ裁判規範性を有するということでおっしゃっておられますので、平和的生存権を根拠として裁判を起こすことが可能であるという理解でいいかと思うんですが、では具体的に平和的生存権を根拠とする訴訟にはどういう類型があるんでしょうか。
一般的な言い方になりますが、行政事件訴訟法が抗告訴訟として予定しているような規定している取消訴訟、違法確認、この場合には違憲ということになろうと思いますが、違憲確認、それから義務付け、義務付けまで進めるかどうかは分かりませんですけれども、そうした訴訟、さらには行政事件訴訟を離れまして国家賠償請求訴訟、これらのものが一般的に可能になってくると思います。
27
では平和的生存権によって今おっしゃいました国家賠償、あるいは損害賠償を請求できるというのは一般的に言えばどういう場合にこれが可能になってくるんでしょうか。
国家の行いました行為が違法であって、そしてそうであるがゆえに国民が権利、あるいは法的に保護された利益ないしはその保護に値する利益の侵害を受けたというときに一般的には賠償請求権が成立をすると思います。
28
では、平和的生存権によっで国家行為、あるいは公権力の行為の差止めを請求できるというのはどういう場合ということでしょうか。
先ほど訴訟の類型を申しましたときに、差止めを失念していたかと思いますが、先ほど並べましたものの中に差止めも含めて私考えておりますけれども、差止請求をする場合には要件はやや絞られて、重要な権利が重大な侵害を受けたということ、またその権利主体が差止めを請求しようとしている国家行為との間に特別な関係を持っているなどの要件が国家賠償請求のとき以上に加わってくるんではないか、そのように一般的に思っております。
29
先生が先ほどおっしゃったことと関連してもう1度お伺いしたいんですが、今おっしゃった平和的生存権が侵害されるというのは国家行為が憲法9条に反する場合ということでいいんでしょうか。
はい。この今日の私の発言はすべてそういう理解の下に9条の侵害が平和的生存権の侵害になるという、そのように考えております。

甲第78号証を示ず
30
この甲78号証は本件と同種の裁判が名古屋で起こされておりまして、平成19年3月23日の判決文です。この内容を見ていただきたいのですが、この判決書の中に、7ぺ一ジ及び8ぺ一ジに差止請求は不適法であるというような判示がされておりますが、この点についではどうお考えでしょうか。
                  (※判決文はイラク自衛隊派兵差し止め訴訟の会HPに掲載されています)
私もこの名古屋の3月23日の判決だったと思うんですけど、これはそれが出ましたときに私名古屋で今おります関係もあって、すぐに注目をして読みましたが、二つの点で注目をしておきたいと思うんです。一つはまず民事事件の請求として差止請求が不適法であるというふうに述べているのは、言わばこれまでの最高裁がずっと示してきた理解をそのままここで引いているということだろうと思います。特に公権力行使がここで問題になっでるわけですから、民事訴訟にはなじまないんだという、そうした理解だろうと思うんです。並べて念のためということでこの名古屋の裁判所は行政事件上の行政事件訴訟としての差止めが請求された場合にもこれも不適法という、そういう理解をしておりますけれども、ここでは権利の具体性ということを特に取り上げまして、平和的生存権がそうしたものに当たらないという、そういう理解をしていると思いますね。これがこの名古屋の地裁のとった結論ですけれど、でも、二つというふうに思っておりますのは、もう一つの点で私はとても注目しましたけれども、したがってこの名古屋地裁はこういうふうにして訴えを退げておりますが、同時にもっともという言い方で平和的生存権とそれから人格権双方についてそれが成立可能な場合があり得るという、そうした大変注目すべぎ論述を加えております。これは判決の主文には結びつかないですけれども;この裁判所が示した、判決の主文とは関係がない、しかしながら規範の理解というものなんだろうと思います。ここは非常に重要だと思います。平和的生存権につきましては、それが第3章の各人権と結びつくような、そういう場面があるとすれば、それば平和的生存権にもこの具体的な、ここでは裁判規範性という直接の言葉は使っておりませんが、具体的な権利性が認められ得る、こういうふうに申してますし、平和的生存権というのは根拠としてはこの平和的生存権が各人権の規定的な権利だという非常に大事な認識をここで示しておりますけど、規定的権利ですね。私も実はそう考えおりますが、したがってこうした規定的な、根底的な土台となる権利であるがゆえに各人権と結びついたときには平和的生存権独自で具体的な権利としての意味合いを持ち得るという、こういう理解をしております。人格権に関しても一般的にはこの権利というのは各人において国家の決定に関して、この場合でしたら国民の代表機関である国会というふうに言っておりますけれども、それについて不服を言っているだけのことだ、こういうふうになるかもしれないけれども、しかしこの判決の言い方によれば、この憲法9条と前文の歴史的経緯に鑑み、今日冒頭に申し上げたそういう歴史的経緯だということと相当すると思いますけども、それに鑑みて、この戦争のない、武力行使をしない日本で平穏に生活する利益と申しております。この利益が法的保護に値すると解すべき場合が全くないとは言えない、つまり言わば平和的生存の人格権、つまり平和なうちに平穏に生活するその人格的権利というものがこれが認められる余地があるというふうに言っておりまして、したがってそのような場合には先ほど話が戻って損害賠償請求の根拠になり、また差止めを求める根拠になり得るという余地を残したものだと、こんなふうに読んでおります。
31
国家行為の差止請求について、その差止めの請求が可能かどうかということは、先生がおっしゃったところによりますと、被侵害利益の人権の重要性とその侵害の程度と関係するということでまずいいんでしょうか。
そうです。その両面から見ていくべきだと思いますね。
32
その点につきまして、例えば自衛隊の海外派遣、海外派兵という国家行為が平和的生存権の侵害に該当し、かつそれによって自衛隊の海外派遣自体を差し止めるということが可能になるような場合というものは存在しますか、とお考えでしょうか。
私の理解によれば、この場合の、この場合といいますのは、今般のイラクへの自衛隊派兵、自衛隊派遣、これの持っている憲法に照らしての重大性、これは大変大きなものでありまして、先ほどもちょっと申しましたけれども、単に自衛隊を日本の領土領海以外に出したというだけにとどまらないわけですね。そうではなく、正に現在戦場になっている外国に武装した部隊を派遣をするという、そういうふうな行為ですね。これはかつてなかったことです。PKO、これは私たちもその当時国民、我々一人の国民として関心持ちましたが、停戦後の場所へ、しかも最小限度の武器を供えた形の中立的な働きをする、そういう仕事で自衛隊を送るという、これとは随分違うわけですね。また湾岸戦争のときにいわゆる掃海艇の派遣ということがありましたけれども、これはあのときの言い方で旗を見せろ、つまりショウ・ザ・フラッグという、こういう声に従って日本の海上自衛隊の旗を外国の海に翻したという、そういうことであって、これも後方支援活動の一つにほかなりませんけれども、しかしそこから見てもなお今日の軍靴ですね、これを地上に置いた、ブーツ・オシ・ザ・グラウンドといいますか、こういう行為というのはやはりこれまでの海外派遣の流れから見ても格段に、やばり格段に違憲性が強いものであろうと思います。したがってそれとの相関関係において打撃を受ける、つまり侵害される利益、国民の利益、これは平和的生存権であり、また平和な生活の人格権ということになろうと思いますけれども、これの侵害されてるその程度も大きいと、これまて、に比べてやはり格段に大きいと言えるんじゃないでしょうか。
33
今先生がおっしゃったのは、自衛隊を海外に派遣したからといって必ず9条に違反するわけではないが、その状況や程度等によっては9条に違反する場合があると。本件はその疑いが強いのではないかということでまずよろしいでしょうか。
ええ。海外派遣ももちろん平和的活動をし、世界平和に貢献するような、そうしたいわゆる平和的国際協調の活動というのはあり得るわけであって、そうしたものは別論であります。
34
では本件についで判断することを前提といたしまして、まずイラクの治安状況についての先生の御見解、御認識をお伺いしたいのですが、まず先生は現在の、近時のイラクの治安状況についてはどのように御認識でしょうか。
専門家としての知識は持っておりません。例えば外交関係の専門学者、また国際政治の専門学者では私はありませんし、憲法というそういう規範を学んでいる学徒でございます。そういう意味では専門的知識がありませんが、ただ知識人の一人としてそれなりに今の新聞や一般的な報道から関心を持って情報を集めておりますので、その限りでは発言ができるかと思います。中身ですか、どういうふうに見るかということですか。
35
そうですね。治安状況をどう認識しておられるかということですが。
私は大変破滅的な治安状況じゃないかというふうに思うのです。この本だったかと思うんですけれども、この本じゃなかったかも分かりませんが、イラク戦争が起こったときの私の本の端書きのところにイラクの民衆は阿鼻叫喚の世界にあるというふうに私申しました。確かにそうじゃないかという気が今もしております。私どもこうしてお互いこの静かな環境の中で裁判という厳正な行為を行うことができるわけですけども、でもイラクだったら果たしてどうなん:だろうか、そんなことを思ったりいたします。私大学の人間ですけれども、静かでみんながにこにこしている、そういう中での講義がイラクの場合にばそうしたことができるのだろうか。きっとぞぅではなく、正にいつ殺される、傷つけられるかしれない、理由もなくそうされるかもしれないという中で生きなければならないというのは、仏教の言葉かも分かりませんが、阿鼻叫喚の世界というふうに思いますし、今のイラクの治安状況などというのは治安のない状況といいますか、そういうふうに破滅的なものと理解せざるを得ないと思うのです。

甲第3号証を示す
36
391の新聞記事を示します。この甲3号証の391は2006午11月29日付けの、昨年の11月末の新聞記事です。イラクの現状は内戦状況であるとアメリカの主要なメディアが位置づけるようになっているということを示しております。甲3号証でこの後にも新聞記事を次々と書証として提出しているのですが、この後もイラクの治安状況は改善してるということは全然ありませんので、少なくともこの時期より現在は同じ程度か悪化しているということでまずお考えいただきたいんですが、この時点で米主要紙はイラン、イラクの現状は内戦であるということで位置づけておりますけれども、先生もこの当時、あるいは現在のイラクの治安状況は内戦状況であるというふうに御認識でしょうか。
内戦というのは、法的な理屈を言うようで恐縮ですけれども、国内における権力担当の勢力と反権力の勢力との紛争、武力紛争ですね、あるいは分離独立を求める紛争と、そうした定義が教科書的定義としてどこにもあります。イラクの場合ずぱりそれに当たるかどうかということは、私先ほど言った専門的見識は持っておりませんけれども、しかしそのような状況、内戦状況だという今のおっしゃった、そうしたものとしては正に内戦状況だというふうに言わざるを得ないと思います。イラクの場合には宗教的な対立が政治的対立にそれに加わっておりますし、さらに加えて民族間の対立もあります。そして私などが何よりも感じますのは、イラクの人たちが自らそれを招いたのでばないということですね。そうではなくて、アメリカなど最初有志連合という形をとっておりました。これらの国々の、取り分けアメリカのイラクへの侵攻がそれを招いた、侵攻、攻略ですね、が招いたということだと思います。ブッシュ政権が、アメリカブッシュ政権がこれに踏み切ったわけですけれども、アメリガの国内でもそのことは、つまりイラク侵攻はイラクをパンドラの箱を開けたような状態にしてしまうと、収集がつかないという、こういうふうな声はたくさんあった、今日これ明らかなんですよね。明らかにされているわけで、ブッシュ政権はそれとは違う情報に基づいて決断をしたのだろうと思いますが、結果はしかしそのとおりでありました。今日収集がつかない状態になっている。そういうことでありますから、私などやや理想的に申すかも分かりませんけれども、やはりそうした国外からのイラクヘ入った勢力、今駐留を続けておりますけれども、こういうような侵攻はやめてイラクの民衆が自らその運命を決める、民族自決、これを可能にするような国際環境を作らなければならない。そうしないと、今日のこの阿鼻叫喚状況などということは改善できないし、イラクの民衆は本当に最近の報道では1週間に数千人という単位で殺害されてるようでありますけれど、そうした状況というものは変わらないのではないのか。日本もそれにかかわってる以上、本当にこの状態を深く考えて、日本の公権力担当者が深く考えてこの状況の改善ということについての真摯な態度をとるべきだろうというふうに思っております。

甲第46号証を示す
37
甲46号証は行政文書の開示の請求に対する決定の通知書で、4枚目以降が実際に開示されてる内容に当たるものです。これをご覧になられると分かると思いますが、内容に関してほとんど真っ黒に塗ってあって判読できないんですけれども、航空自衛隊が発着した地点についでは記載がされております。1枚目ではアリから出発してアリアルサレムというところに着陸したと。2枚目はちょっと分かりませんが、3枚目ではバグダッドを拠点として行動したことが伺えます。ということを前提としまして、次にもう1通書証を示します。甲第3号証の新聞記事の342を示します。これは航空自衛隊のイラクでの活動がバグダッド空港を拠点の一つとして活動してるということが示されましたが、これに関しまして甲3号証の342という昨年の10月6日付けの新聞記事ではアメリカのライス国務長官がイラクを訪問した際にバグダツド空港に着陸しようどしだところ、バグダッド空港、先ほど申し上げました航空自衛隊が活動してるバグダソド空港の周辺で砲撃があって;アメリ力のライス国務長官の乗ってる飛行機の着陸が35分も遅延しだということが報じられております。この二つの書証を基にしましてお伺いしまずが、このような今申し上げましたような航空自衛隊が活動拠点にしてるバグダッド空港の治安及びこの周辺の治安状況というものを先生はどうお考えでしょうか。
治安の悪い所、イラク全土がさぞかしそうだろうと思いますが、その中でも際だって悪い、その一つがバグダッドだろうと思います。といいますのは、日本の陸上自衛隊のほうでありますけれども、これもそうしたバグダッド周辺等を避けまして、サマワという南部の地域に派遣、駐留をしたわけですね。そして空自もごく最近までは、航空自衛隊、ごく最近まではバグダッドへの米軍等の、米兵等の輸送というものはしなかったと思います。別の所への輸送だったと思います。そうしたところからこれまで避けていた、それはバグダソドが誠に、言わばイラク特措法の言葉によれば戦闘地城中の戦闘地域だからだというふうに思います。今見せていただいた証拠は別の市販されてる本にも書かれていましたんで私知ってましたけれども、つまり墨塗りでほとんど何がなされたのか分からない、その証拠ですけど、これについて私はその本を読んだときも、あるいは若干の国会論議をテレビで見たときも、私たち、つまり国民に情報が知らされないことの重大性、これを特に感じました。私たちは主権者でありまして、情報公開をされるその主人公であります。しかしながら、私たちから権力を預かってるにすぎない政府が私たちに公開しないということは民主主義の大もとを崩しているというふうに思います。国会でも議論になっておりましたけれども、国会に対してさえ示していないと思います。ですから、私たちは一体全体航空自衛隊がイラクで本当に何をしているのか、本当には何をしているのかということを知らないまま主権者としての判断をせざるを得ない状態に置かれている、これは果たしていいのだろうかという根本的な疑問を感じております。

甲第38号証及び甲第39号証を示す
38
まず甲38号証ですが、これはアメリカ空軍の公式ホームページの記事をプリントアウトしたものです。この内容としては、最初の一番上のほうに書いてありますが、航空自衛隊がコンバットゾーン、つまり米軍が規定しているコンバットゾーン、戦闘地域に配備されているということがまず書かれています。及び同じページ、これ1枚目ですけれども、真ん中より下のほうですが、ビーイングから始まる文章については、これは航空自衛隊が米軍と緊密に協力して行動してるという趣旨のことが書かれております。甲39号証はこの件に関するインターネット上の新聞記事でして、民主党の鳩山幹事長が批判しているという記事です。このようにアメリカの米空軍の公式ウェブサイトからもはっきりと分かるようにコンバットゾーン、つまりアメリ力軍が提示している戦闘地域ですが、ここに航空自衛隊が派遣されており、そこで米軍と緊密に協力して行動してるということがはっきりと明らかにされておりますけれども、この点について先生はこの活動状況をどうお考えでしょうか。
直接にはイラク特措法に対する正面切っての違反だというふうに思います。コンバットゾーンという英語の表現と我がイラク特措法の使っている戦闘地域ということとがぴったり一致するのか、とても細かな検証が必要かと思いますけども、ただやはり実質的には同じことを言ってるんだろうと思うんですね。アメリ力側は文字どおりコンバットゾーンで日本自衛隊が活動しているというふうにそこで言うわけでありますから、したがってそれを踏まえて考えるならば、日本の自衛隊の活動は憲法、自衛隊法、そこを脇に置いてもなお直接的な活動根拠であるイラク特措法それ自体に違反しているというふうに言えるのではないのかと思います。前の総理大臣、現在ではなく、前の総理大臣でありましたけれども、の印象に残る答弁を今思い出しましたけれども、前首相はこんなふうに言っておりました。自衛隊が派遣される地域が非戦闘地域なんですと、こう言っておりました。こうした形而上学的な観念論からすればイラク特措法・違反などということは起こらないわけでありますけれども、これは観念の世界で起こらないだげであ りまして、実質的には現在イラク特措法違反を日々続げているというふうに考えたほうがいいんではないか、そんなふうに思います。
39
今先生がおっしゃいましたような先生の御認識されておられる航空自衛隊の派遣地域と活動内容ですけども、に関する先生の御認識を前提としますと、あるいは先ほど情報保全隊がイラク派遣に付随して、あるいは関連して国民の活動を監視しているという、実に公然と活動しているという、そういう自衛隊の活動を総合的に考えられますと、航空自衛隊の派遣は法律に付随するそういう監視活動も含めてですけども、日本国民の平和的生存権を侵害していると判断していいでしょうか。
これは明らかにそのように言わなければならないと思うんです。既にこれまでにも述べたところですので結論だけにとどめますけれども、今般の自衛隊の派遣というのはどの面から見ても、つまり法治国家である日本、この日本の持っている法律、徹底的に大事にしなければなりません。その頂点にある憲法から見ても、るる申してますように、そのもとにある自衛隊法やイラク特別措置法から見ても全くその根拠を持たない国家の公権力行使と言わざるを得ないと思うんです。したがいましてそれによって受けている人々の権利や利益の侵害というのは今までの私のお話の中では自衛隊員という言葉は出しておりませんですけども、派遣の名あて人になっている直接派遣させられたこの自衛隊の皆さんを含めて、そして国民すべてについていろいろな形で多様で深い傷を、法的には権利や利益の侵害というものをもたらしているというふうに思います。
40
今おっしゃった趣旨からも明らかだと思いますが,航空自衛隊の海外派遣、海外派兵というものは憲法に違反しているというふうに判断されているということでいいんでしょうか。
ええ。繰り返して申すとおりですけれども、真正面からの違憲な国家行為であるというふうに考えます。
41
では、違憲であるということで損害賠償の請求、あるいは派遣の差止めというものの請求というものはなし得る程度の侵害であるというふうにお考えでしょうか。
その違憲の程度がこれまで申し上げた私の考え方では大変深いものでありますから、したがってそれによって人々が受ける権利侵害というものは大変重大なものであって、損害賠償はもちろん差止めの根拠にもなり得るようなその程度のものになっていると思います。ただ実際上訴訟の制度に則して考えます場合には一層個別的な検討が必要ですから,そうしたことを課題として留保しつつ,しかしながら一般的にはその訴訟を基礎づけるものに今日なっていると,こう考えます。

このページの上に戻る



原告ら代理人 (板井俊介)

42
続きましては人格権のことについてお尋ねしていきた。と思うんですけれども、この訴訟で戦争や武力行使をしない日本で生きる権利、これをいわゆる人格権としてとらえることができるんでしょうか。
戦争や武力行使をしない日本で生存する、あるいは生きる権利というのは直接には平和的生存権の定義として本件で使われているものであります。同時にそれは司法上の権利としての人格権を言わば裏付けて、そしてその人格権の一つの内容として戦争や武力行使のない日本で言わば穏やかに生活をする法的な利益ないし権利という、そういう形で人格権と言えるのではないか。人格権は、もうだれもが御承知のとおりに、それ自体の理論上の歴史を持っておりますから、憲法とも関係が深くて、取り分け13条の幸福追求権というのは人格権と大きな結びつきがありますので、したがって平和的生存権と全く切り離した形で人格権があるというふうには思いませんけれども、でも同じものを司法上の人格権という形で言えば平和の内に穏やかに生活をする利益ということを主要内容とした人格権ということになるんじやないか、こんなふうに思います。

甲第78号証を示す
43
10ぺ一ジ目を示します。これば先ほどもお示ししました今年の3月23日付け名古屋地裁における判決書きですが、この一番下のもっともから始まる下の段落の2行目、 「戦争のない、または武力行使をしない日本で平穏に生活する利益」というくだりがあります。ぞれからさらに一つ下の行の最後のほうから始まりますが、 「憲法9条に違反する国の行為によって生活の平穏が害された場合には損害賠償の対象となり得る法的利益」、こういうくだりがあります。今証人が人格権としてとらえることができるというふうにおっしゃった内容というのは、今お示しした判示の内密の部分の趣旨ということでよろしいんでしょうか。
ええ,ほとんど一致していると思います。
44
そうすると,今申し上げたような権利が具体的にはどのような場合に侵害されたというふうに言えるんでしょうか。
本件の場合にはイラクに自衛隊を派遣しているという、そういう行為でありますけれども、そのような国家行為によって多くの人々がよく使われる言葉で言えば不快感、あるいは焦燥感ないしは恐怖などなどの感情、あるいは感情における侵害を受げますけれども、しかし平和的人格権と申しますか、要するに、平和のうちに生きる、平穏な生活をする人格権と、それを言うためにはもう少しそれに加えて要素が必要になってくるのではないのかと思うのです。つまりそれぞれの、それぞれのというのは国民それぞれの持っている状況、置かれている状況ということに照らして、つまり個別的に観察をして、それぞれの人が当該国家行為、つまり本件派遣というものとの間に特殊な関連を持っている、特別な関係、こうした関係性といいますか関連性といいますか、それの特殊性ということがやはり必要になってくるので、それをしっかりと見ていくことが平和的生存権、これに基づく人格権を裁判上主張するためには必要になってくると思っております。

甲第33号証を示す
45
これは原告の長迫玲子さんという方の陳述書ですね。例えばこの方においてはどういう意味において平和的生存権,あるいは人格権の侵害が生じてるというふうにお考えでしょうか。
本件訴訟の原告の方々の陳述書を私すべて拝見いたしまして、大変率直に申しますと、これだけのものを読むことぱ関西弁で言ってしんどいというふうに思ったんですけれども、しかし読み進めてまいりますとそれぞれの皆さんの平和への心というものがそこに示されていて、私は率直に言って胸を汀たれました。それに共通する、全体に共通することは何よりも戦争ということに、あるいは直接戦争を体験しておられない方は、戦争の残した傷あとということに大変苦労をなめておられると、引き揚げの方も、外地からの引き揚げの方もたくさんおられますし、そしてまた直接の戦争体験の方もおられる。その苦労をもってそしてこの憲法に出合っておられるわけですね。この憲法が青空のようなものとして受け止めておられると、だからこそこの憲法の下でそれに反して平和を乱すような国家の行為というものはやめさせようというふうにされている、これが共通しておりまして、その共通性においてすべての原告の方が平和的生存権ないし人格権というものを主張する、そういう適格を持っておられるというふうに私は思うんですけれども、しかしなお現実の日本の訴訟制度の中で厳格な観察をしていかなければなりませんので、そういう点で今弁護人がお示しになったまずは長迫さんのこの陳述については、先ほど私申しました関連の特殊性ということがとても鮮やかに言えるのではないのかという気がいたしております。それはこの方は熊本市の自衛隊の総監部のある所、存在している、その所で生活をなさってる方で、したがってこの自衛隊の家族の方々とも親しい、そういう方なんですね。その中で何よりも自衛隊というのはここで日本を守るものであって、そして軍隊ではなくて、絶対に外国に行くことはないという、そういう気持ちを自衛隊員も持っているし、近所の方々、この長迫さん御本人も持っておられる。そういう中での今回のこれを破っての海外派遣、派兵ですよね、中身としては、そういうものであったわけですので、したがいまして、それについては大変なショックを受けておられて、一体いつから日本はこんな国になってしまったんだろうかと、したがって、この派遣をしているそうした人々の安全を思いやり、またこうした日本国民が加害者になる、そういうことに打ちのめされているというふうにおっしゃってる。こういう事例というのは先ほど申したような人格権を証明するのに適しているのではないのかというふうに思いました。

甲第64号証を示す
46
ただ今のお話は長迫さんについてのものでしたが、例えばほかの原告の方についてもお尋ねしますが、甲第64号証、藤岡さんの陳述書があります。例えばこの方で言いますとどういうことになるんでしょうか。
この方は僧侶さんだったと思うんですげども、僧侶の立場でいわゆる法事、法要をなさる、そのことを通して平和の問題について深く考えるようになるということを書いておられるんですね。その中でちょっと私心打ちましたのは、法事ですから、戦争犠牲者の方々というのは法事ごとに年数を経ていくわけですね。そういう中でもし今生きておれば何歳になりますというふうに遺族の方は言われたりしばしば鳴咽されると、また、今日は17歳で戦死したこの元の33回忌ですというような、そういうようなあいさつをなさったりというふうに、言わばこの僧侶さんは直接自らとの戦争の関係を言われるんではないんですけれども、しかし自分のお仕事を通して、つまり宗教者としてのお仕事を通して戦争で亡くなった人々への思いを強めておられ、それを通して兵矛無用というこの仏教の言葉を、釈尊の教えを改めて知ったと、そしてそれがイラク派兵に反対する訴訟に加わった動機なんだというふうにおっしゃってる、こういうふうなケースであります。

甲第66号証を示す
47
同じく同様の趣旨で御質問いたしますが、甲第66号証、Fさんの事例だとどうなるんでしょうか。
この方は小学校の教員を長くなさって退職されている、そういうお立場の方でありますけれども、私がはっきり言いまして、涙してしまいましたのはこういう部分でありました。私が17歳のときの日記があります。その中でこの方のお兄さんは甲種予科練習生、いわゆる予科練ですね、予科練に行っておられて、そういうときの予科練というのは誇りであります、若人の進路の誇りなんですよね。この方も兄さんに続こうと思って少年航空兵になると、こんなふうに言っていたと。そういうとき、お母さんが国のために尽くすのはただ兵隊になるばかりでなくほかにもあると。学校の先生になって第2の国民を育てることも大切だというふうにお母さんが諭されたらしいです。そのお母さんが諭された様子をこの方は次のように言ってるんですね。周りを憚るようにしてというふうに言っておられるわけです。そういう時代だったと思うんです。辺りをはばかるようにしてお母さんは死ぬなと言われたわけですよね。死ぬなというふうに言われて、そしてこの方は予科練ではなくて師範学校への道を進んでそして先生になられると。この方のお孫さん、孫娘さんのようですげれども、この方がいろんな経過があったんだろうど思いますけども、自衛隊に入られたと、それは悲しかったけれども、しかし何とかこの自衛隊派遣ということを、イラク派遣ということを、これを止めることでこの孫娘さん、最愛のお孫さんが死なないでいてほしいというふうに書いておられる、こういう思いは自分の肉親、孫だげではなくて、すべての若い人への思いなんだろうというふうに私は拝見いたしました。

甲第70号証を示す
48
70号証は宮川さんとおっしゃる原告さんの陳述書です。この方についてはどうなるんでしょうか。
この方は宗教者でおられますが、プロテスタントの牧師さんなんですね。この方は特に香田証生さんの死、殺害ということに大きな打撃を受けて、そのことでイラク派兵問題ということを深く考えるようになられる。香田証生さん、御存じでしょうか。証生というのは何と生きることをあかすとぃう証生であります。この生きることをあかすことの名前を持っている香田さんがイラクのいわゆる武装勢力によって殺害された、その事件は本当にその当時私たちを悲しませました。この武装勢力は自衛隊がイラク派兵をやめるならば香田さんを釈放すると言ったんですね。こうした勢力のこのような要求の善し悪しは別にして、もし人の命は全地球より重いという立場に当時の政権が立っていたならばこの人の殺害はなかったわけですね。こういう重さをやはり宗教者として、自分自身の問題ではないにしても、自分の問題としてとらえて今回の訴訟への参加をなさっているという、こういうふうなところに私は感動もいたしましたし、法の問題としては人格権の主張をなし得る、そういうお立場であることを感じました。
49
今おっしゃられたような原告らの人格権侵害の有無,あるいは損害賠償請求の可否,これを判断するための方策として,イラク国内の現在の治安状況,こうぃうものを実際に確認する必要があるというふうにお考えでしょうか。
大いに必要があるのではないのかと思います。もし派遣主体である日本政府が情報をすべて私たち主権者に開示しているという,そういうことであればともかく,これであればよく分かりますし,裁判所においても事実は明白に認識できるわけでありますけれども,そうでない今日ということを考えれば,なおさらイラクの現地で実際に調べてみるということはとても大事だろうというふうに思います。イラクでそうしたことを調べること,それから先ほどの私の発言ではそれぞれの人がそれぞれの生き方と思いを持っておられる,そのことをこの裁判においても直接表明でき,裁判所にそれを聞いてもらえるという,そういう機会も必要じゃないかというふうに思っております。

乙第5号証を示す
50
これは本件と同様の訴訟でありますイラク派兵差止訴訟の甲府訴訟の判決、第23ぺ一ジ目を示します。この判決の中で、下のほうの段落、イという段落がありますが、このまたで始まる段落の3行目ですね。判決の理由としてこういうことが書いてあります。 「間接民主制の下において決定、実施された国家の措置、施策が自らの信条、信念、憲法解釈等に反することによる個人としての義憤の情、不快感、焦燥感、挫折感等の感情の領域の問題というべきであり、そのような精神的苦痛は多数決原理を基礎とする決定に不可避的に伴うものである。こういうことを理由にして人格権侵害等が認められない」という判示がありますが、これについてはどうお考えでしょぅか。
私、この甲府訴訟、甲府地裁の判決は早く読んでおりまして、かなりこの趣旨の日本各地で行われた訴訟のかなり早い段階の判決だったと思うんです。この甲府地方裁判所の判断の中で一番私驚きましたのはやはりこの部分ですね。言わば間接民主主義論と申しますか、の部分です。つまりここでいう間接民主主義というのは議会制ということですけれども、議会によって決められた例えばイラク特措法、またそれに基づいて派遣されている行政府の決定としてのイラク派遣、こういうものは多数決によって決められたものであるから、したがってそれによって生ずる不快感でありますとか義憤の情でありますとか、こういうものがあるとしてもそれには従わなければならないという論理です。しかし、私は根本的な民主主義理解という点においてこの判決の問題性をその当時感じました。今もそれを発言しようとしてるところですけども、つまり今日近代国家がとっている民主主義観というのはこういうものではなかったはずです。つまり多数決民主主義ではなくて立憲民主主義であるはずです。立憲民主主義とは人権の保障を大前提とした民主主義、したがって少数者の自由、人権というものをこれを最大限取り入れ、配慮した民主主義、またそこから排除された少数者の人権を救済できるような民主主義であります。この立憲民主主義は共通理解であったはずです。裁判所もそれに立っているだろうと私などは思っておりましたけれども、甲府地裁判決はそうではなかったようであります。私は次のように考えるべきだと思うんです。むしろそのような議会の多数決民主主義の過程で排除された少数者の意見や、あるいは権利というものはこれは裁判所によって救済しなければならない、もちろん理がある場合はでありますけれども。しかしながら、この裁判所は、甲府、この裁判所はそれに理があるかどうかということの前にこのような決定には従えと、こういう決定に対して不服があったとしてもそれは単なる不快感、義憤の情、焦燥感にすぎないというふうに切り捨てております。ということは裁判所としての役割というものを自ら放棄、ないしは裁判の役割というものの自らの拒絶ということをしてしまったようであって大変な心配を持つ次第です。一つのイラク派兵訴訟、イラク派遣の平和訴訟に敗訴判決が出たというだけではなくて、この判決の持っているこうした基本的な問題性、これは大変大きいというふうに思っております。
51
少し話が変わりまして、憲法訴訟において判決理由中で憲法判断を示すことについてはどのようにお考えでしょうか。
判決理由の中で憲法判断を示すという、そういう手法は判決の中で、つまり判決主文の中で憲法判断、つまりこの場合大きく問題になるのは違憲の判断でありましょうが、そういう手法と比べてどうかという、そういうテーマだろうと思うんですね。我が国の憲法訴訟においては判決の主文では多くの場合原告の側の請求を棄却をするという、そういうふうな形をとりつつ、しかしながら相当多数の判決は判決理由の中で憲法に触れ、そして違憲、争われている事柄についで違憲という評価をしていく、そうしたことはこれまでにもあるわけですね。例えば靖国神社を前の首相が公式参拝をした問題についても福岡地方裁判所や大阪高等裁判所はそのような形で判決理由中の違憲判断ということを示しております。私はこの手法というのは今日の我が国の憲法訴訟、司法審査性、この司法審査性においては有益であり、また必要なものであろうというふうに思っております。多くのいろいろなことを取り上げて議論しなければならないと思いますげれども、多くの場合に原告が求めているのは中心的な事柄について裁判所が憲法判断をする、そして違憲の判決をするということであります。例えば靖国神社の場合には公式参拝についての判断であります。これを判決理由中になし、そしてしかしながら他の要素で仮に宗教的人格権の侵害はなかったという、そういう部分で結論としては訴えを棄却をするということがあったとしてもこの判決理由中の判断は生きると思います。そしてその場合は原告は上訴をしないという方法をとることが多いわけで判決は確定いたします。この憲法判断というのはしたがって将来に大きな積極的な役割を果たすもので、日本の裁判所がとるべき一つの賢明なやり方、一つのやり方であろうというふうに積極的に評価をしている次第です。
52
それでは本件訴訟についての御意見というものもお伺いしたいわけですが、その前提として本件で対象になっていますイラク派兵行為というのは、これまでの海外派兵行為、あるいは自衛隊の活動、こういうものと比較してどのように違法性、あるいは違憲性の程度が大きいというふうにお考えでしょうか。
申し上げたことを若干繰り返すことになりますけれども、停戦が成り立ってから中立的な立場でごく限定された武器を持って海外に出掛けるPKO、これと比べて大きく異なっております。違憲性が深まっております。また、同じく自衛隊が海外へ出掛けるにしても、海にとどまっていて、そして海から後方支援を行うという、そういうこと、その段階、つまり湾岸戦争時期のものともまた違います。違憲性が深まっております。今回は直接戦場になっている陸地へ、他国へ武装した自衛隊が、しかも5000という程度の規模で派遣されていることの大きな違憲性、これがまずこれまでとは違った今回の問題の持っている違憲性だと思います。そして具体的には長期に及んでおりまして、2003年の3月から長期に及んでおりまして、イラク駐留がですね、日本の参加はその少し後でありますけども、及んでいて、なお将来の見通しが立たない、そして日々多くの人々が亡くなっているという、そういう状況というのはやはりこれまで日本の憲法の下で私たちが経験したことがない戦争への参加というふうに言えるのではないかと、違憲性の度合は格段に深いというふうに思います。
53
要するに今回のイラク派兵行為というのは現行憲法上においてこれまでの歴史上最大の違憲行為であるというふうにお考えだということでしょうか。
ええ、現行憲法下、その少なくとも平和主義に関しては、第9条に関 しては、また第9条と一体のものとしての平和的生存権に関しては、その領域では文字どおり最大の違憲行為だというふうに思います。
54
戦争はある日突然やってくるものではなくて、戦争準備の積み重ねがあって、ある時点で初めて目に見える形で起こってくるものというふうに思いますが、現行憲法の下で主権者である国民の平和的生存権を守るためにはいかなるときに司法はいかなる判断をすべきというふうにお考えでしょうか。
戦争というものについて日本国憲法は私は科学的な認識をしているのではないのかというふうに思います。憲法は身近な法典ですから、文章も短いですが、政府の行為によって戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意するというふうに、戦争というものを政府の行為によって起こる、こうとらえる点であります。つまり戦争は自然現象ではないと、また戦争は民衆が起こすことのできるものではないと、戦争を起こすのは、そして戦争を起こすことができるのはただ軍事権力を持つ国家だけであると、つまり政府、この政府の行為によって戦争というものは起こるし、またそれは参禍を引き起こすという、こういう認識を憲法はとっていると思います。大げさなつかみ方かも分かりませんが、私は科学的な認識の仕方をしているのが我が憲法の戦争観であるというふうに思っております。さてそういうものを起こさせないようにしようという、これが憲法の決意でありますので、したがいまして、あらゆる努力を戦争をさせないために私たちはしなければならない、市民の努力も含めてしなければならないというふうに思うのです。つまり戦争というのはある日突然やってくるもんではないと先ほどおっしゃったとおりであって、戦争準備いうものが積み重ねられて、その結果として戦争に至るものでありましょう。とすれば、その準備それぞれの段階で私たちはそれを止めなければならない、そしてこの私たちと申し上げたその中で、最も大きな役割を果たすことのできるものの一つが裁判所であります。裁判所は違憲審査権というこうした気高い権限を憲法を通して国民から与えられているわけであります。したがいまして、この権限の行使を時期を失せずに、つまり戦争準備が進み積み重ねられ、どうにもしようがないところにまで至らないその段階で、よく若葉のうちに摘むという言葉がありますけれども、この戦争の企みは若葉のうちに摘まなければならないし、裁判所の果たす役割というのは司法審査権の行使を通して大変大きいものであるのではないのかと思います。きっと国民はそれを支持いたしますし、国民に支えられた権限行使ということになるのではないか、こんなふうに期待しております。
55
今までの御意見を踏まえて、最後の質問ですが、本件において裁判所が果たすべき役割、それについて憲法の観点からお話しください。
私は憲法の研究者ですが、特に違憲審査制ということをテーマにして修士、博士の過程から勉強してまいりましたけれど、そういうことを通してとても思うことがあります。それは裁判官、あるいは裁判所が違憲審査権をいざ行使をするというこのことはとても大きな決断が必要なんじゃないかということを私、感じております。外部にいる人間で恐縮でありますけど、私はそう考えております。なぜか、一つは政治があります。大きな影響を政治に及ぼすわけでありますから、だれもがそうしたことについての行為をなさると、どの裁判官もなさるということはきっと当然であろうと思。ます。もう一つはそれにかかわりますけれども、日本の憲法によれば違憲審査権は裁判所、取り分け個々の裁判官に、最高裁判所のみならず下級裁判所のすべてを含めて付与されているわけですから、たった一人の、あるいはお3人の合議の決断が大きな影響を政治をはじめ国家運営に及ぼすという、そういうことへの遠慮ないしは逡巡であります。これは人間として理解できるところであります。けれども同時に憲法はそのことを期待をしておりますし そしてその期待をバックアップして裁判官の独立や裁判官の身分保証というものを最大限に厚くしているわけであります。そしてまたそれを、先ほどの言葉を繰り返しますけれども、原告をはじめ国民の皆さんは支持しております。したがってそういう中で法的な判断を政治に対 して右顧左べんする必要はない、全くないわけで、法的にはこうであるとい う判断 を裁判官が示 してくだ さることを私はお願いし、また期待をして発言を終わりたいと思います。

以  上     
    






このページの上に戻る